アジア古来の哲学と自然と芸術

彩流華 華林苑

Sairyuka art and old Asian philosophy rooted in nature.

古流の花だより


 

2023年05月31日(水) 華林のブログ

〝アヅマ〟の意味⑤ 菅原道真と武家文化

――江戸・東京の霊的構造 その9
  武蔵の国のなかの〝ヤマト〟

  さて、奈良・京都の都からみて東国は、ここまでの連載で見てきたように「異国」といった側面があり、そこは不気味でありまた大きな魅力を感じさせる場所でもありました。平将門の乱や鎌倉幕府はそんな東国の力を示すものであり、室町幕府も開幕の地を鎌倉とするか京都にするかで迷ったと言われます。足利氏自体が古代の東国・下野国(栃木県)を出自とした高い文化を誇る一族であり、戦国大名や徳川家康も同じ武家の先達として足利尊氏を深く尊崇していました。南北朝の時代にも南朝の要である北畠親房は東国の常陸の国(茨城県)に渡ってこの地域の武士などを味方として南朝の勢力を復活させようと企てました。九州など西の地域にも政権をゆるがすような事件はありましたが、大きな原動力となったのは圧倒的に東国の力でした。とくに武家の社会となってからは、東国の存在は非常に大きな意味を持っていました。
  西=京都を中心とした地域と、東=東国の文化的な違いがはっきりとしだしたのは、南北朝合一が大きな契機となったものと思われます。それ以前には、中央政権においても二つの文化の系統が混然としたなかにあり、その時々で両者はしのぎを削っていたものと思われます。たとえば平安時代中期の早い時期、菅原道真と藤原時平の例はそのもっとも顕著なものだったでしょう。二人は同時代の政治家で、菅原道真は藤原時平の謀略によって九州の太宰府に左遷され憤死、のちに「天神」として祀られるという日本独自の信仰形態をたどります。
  菅原道真は古代の土師(はじ)氏の出身で、現在の大阪府藤井寺市あたりは土師氏の本拠地でした。ここには道明寺(どうみょうじ)と道明寺天満宮がありますが、明治の神仏分離令以前には両者は一つの大きな寺社で、一本の檜から菅原道真自身が彫ったと伝えられる十一面観音像(国宝)や道真ゆかりの品々が残されています。
  本地垂迹説では天神の本地は観音とされ両者は同じ信仰とされますが、「天神」としてまつられるようになった菅原道真にゆかりの道明寺に菅原道真の自刻の十一面観音像が祀られており、菅原道真=天神信仰はまさに観音信仰から生まれたかのような側面があります。江戸時代の有名な「曽根崎心中(近松門左衛門)」も舞台は大坂・曽根崎の『露天神』の森で、観世音菩薩が大きな役割を占めるというストーリーでした、天神の本地仏が観世音菩薩であることはかつて常識だったのでしょう。
  本地垂迹説あるいは神仏混交の流れは平安時代にはかなり確たるものとなっていますが、いっぽうで、伊勢神宮その他一部の神道では仏事や僧侶を好まない系譜も古くからあったようです。当時、伊勢神道は今日ほどには存在感は強くなく、江戸期に古事記が契沖などによって研究されて以降、その勢いを増していったものと思われますが、平安時代などは歴代の天皇においても仏教、とくに観音信仰や不動信仰を中心とした流れに対しての信仰心にはかなりの温度差があったようです。
  古代から中世にかけての天皇家におけるこのような状況が決定的に変化したのは南北朝合一、後小松天皇以降と思われます。
  これ以降、観音信仰や不動信仰、またそれと表裏一体となる神々への信仰は、「武家文化」と「天皇・公家文化」を識別する指標ともなっているようです。それは明治維新にいたって激しく顕在化することとなり、あの神仏分離、廃仏毀釈がおこなわれたのです。また、あまり知られていませんが、神道系でも観音信仰以上に激しい弾圧をうけたものがありました。当時は古神道の性格が強かった天理教や陰陽道系の神道などは、同じ神道でありながらも当時の伊勢神道=国家神道とは相容れない性格を有していたものと想像されます。
  このような側面をみてゆくと、「武家文化」が関東など東国に強い力を持ったのは、この地に観音信仰などを受け入れる精神的・風土的な素地が古くからあったためと考えられます。その端緒は古墳時代、弥生時代あるいは縄文晩期までさかのぼる可能性もあると思います。
  さて、南北朝合一以降の南朝、いわゆる「後南朝」は紀伊半島の吉野から最奥の十津川まで後退しながら、北朝と相容れない古い皇室のなんらかの文化を堅持していたものと思われます。以降、後南朝の流れは平家の落武者のように全国へ散ったのかもしれません。しかし、そのなかには興味ぶかい文化がみられることがあります。それは往々にして北朝系の人たちにとっては認めたくなかったものだったようで、たとえば北畠親房が神皇正統記のなかでふれている「徐福(徐氏)」などはその最たるもののひとつです。そんな歴史も今日では融解して、お互いの文化の差異を認められる時代になっています。
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道明寺天満宮。かつては道明寺と同じ寺社で、古くは土師寺と呼ばれた。菅原道真は土師氏の出身で、ここは古くから土師氏の根拠地で道真もよく訪ねた。太宰府へ左遷されるときもここに立ち寄り、伯母の覚寿尼に別れを告げたとされる。菅原道真ゆかりの品が多数遺される。大阪府藤井寺市。
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道明寺は現在は真言宗系のお寺。道明寺天満宮のすぐ近くにある。菅原道真の自刻と伝えられる十一面観音像を本尊とする。いかにも密教寺院らしい雰囲気がある。かつては道明寺天満宮と一体、つまり『土師寺』の一部だったが、明治の神仏分離で少し移動、また名前も道明寺天満宮と道明寺とになって分かれている。


 

2023年05月26日(金) 古流の花だより

石川県いけ花文化協会 総合花展(前期)が5月24日~26日に香林坊大和で開催されました。

家元先生も大作で出瓶されました。
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他、出瓶された方々です。
大作
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上田理碧、中保理希
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奥田理和、河崎理鳳
中作
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荒木理芳、田中理和
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吉田理玲、干場成樹
普通作
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荒谷理真、川口碧由
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中村碧穂、北岸華穂
順不同


 

2023年05月23日(火) 古流の花だより

速報版 金沢市の花展より

石川県いけ花文化協会花展より
5月24日~29日 金沢市香林坊 大和デパート
華林=廣岡理樹 彩流華
五行(木火土金水)の五軸に彩流華・風の華
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ほか、前期後期に古流柏葉会の方々ほかが出品されます。
※写真はクリック、タップすると拡大します。


 

2023年05月17日(水) 古流の花だより

石川県、富山県の花展に皆さんが出瓶されます。

華林・彩流華も出品予定です。(石川県金沢市)
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2023年05月13日(土) 華林のブログ

〝アヅマ〟の意味④ 『鹿嶋』

――江戸・東京の霊的構造 その8
  武蔵の国のなかの〝ヤマト〟  

  全国に「鹿島(鹿嶋=かしま)」の地名は多く、私が実際に訪れたそれらの場所では共通した特徴があります。海ぎわで、岬あるいは類似の地形、つまり海の近くの小高い岩場で、ツバキ、タブノキ、スダジイやヤブニッケイ、サカキ、シロダモなどの照葉の常緑樹の樹々が生い茂っています。多くの場合、樹々は海ぎわに特徴的な姿をしています。それらの樹は豊富な地下水脈がなければ育たない種類のもので、その場所が遠くから続く山系の岩盤の連なりの先端となっているのです。つまり、地下水脈は岩盤の連なりがあってはじめて生まれるもので、相当量の地下水脈があるということは、じわじわと長い年月をかけて滲み込むように伝わって移動してきた水なのです。近くに湧水があれば水質調査が行われることもあり、何百年、あるいはその十倍、百倍の歳月をかけてゆっくりと移動してきた水であることが判明することもあります。地下水ですからいわゆるミネラルウォーターなので、天然のとても美しい水、人間にとっては美味しい水、ということにもなります。
  さて、全国の「カシマ=鹿島」のなかでもっとも有名な場所が茨城県鹿嶋市の鹿島神宮です。今日ではむしろ鹿島アントラーズの名前で知られる地名かもしれません。鹿島神宮は奈良時代よりもさらに以前から朝廷や中央においてよく知られる存在だったようです。そして鹿島神宮の神が「タケミカヅチ神」と定められたのはその後の時代でした。そのため、全国に数多くあるカシマ(鹿島)と呼ばれる地にはタケミカヅチ神が祭られることは意外と少ないようです。
  古く、全国の鹿島は香島、加島、可志麻、変わったところでは所聞多などさまざまに表記されていました。以前にも述べたように、古い時代の日本語には発音だけが存在し、それに渡来の漢字の音を当てはめていったという経緯があるので、同じ言葉にさまざまな異なる漢字が当てはめられるということが起こっています。またときにはそれ以外の理由でさまざまな漢字が当てはめられました。たとえば「所聞多」をカシマとよむのは、「やかましい」「うるさい」の意味の「かしましい」が漢文的に表記されたところからきていると考えられ、やや後の時代の表記です。「かしましい」は必ずしも悪い意味ばかりでなくて「有名」というニュアンスも少なからずあると思います。それは、つい近年まで有名であることを「やかましい」と表現していたのと似ています。さらに古い朝鮮語「所聞」も似た意味のようです。
  また「鹿児島」や大和三山の一つ「天の香具山」も同じ語源からきている、とする説も目にします。ここではツバキ、サカキなどの照葉の美しさを古代には『かぐはし』と表現したことからきた考え方と思われます。鹿児島半島は海ぎわの多雨地帯で照葉樹林が有名です。大和三山のなかでも突出して霊山とされた「天の香具山」は小さな山ですが、畝傍山、耳成山とちがいここだけが古来霊山の極みとされた吉野や熊野をふくむ紀州の峻険な山地の連なりの突端となっており、山系が海ではなく平野へ延びるときの「端」の位置になります。樹々の相もどこか全国の鹿島の地に似ています。「端(ハナ)」は岬の名前にもよくつけられる言葉ですが、これとよく似たニュアンスなのでしょう、「ハナ=先端」が貴いというのは太古のヤマト以来の感覚でしょう。
  さて、古代の有力氏族は自らの出自を鹿島神宮のあたりと名のった例があります。それは必ずしも真実ではないとされることも多いようですが、その氏族は氏神をタケミカヅチ神として奉斎し、この神は奈良・京都で大きな存在感をみせます。つまり、アヅマの国の鹿島神宮は奈良時代、またそれ以前にも朝廷・中央政権やその周辺で非常によく知られた場所だったといえ、それに何かの理由で「タケミカヅチ神」を習合させていった、という順序が考えらます。古代、飛鳥時代やそれ以前から「アヅマの国」はけっしてたんなる未開の地ではなく、実に不思議な存在感のある地だったのでしょう。そんなところから、知られざる古代の歴史の実像が見えてきそうです。
  江戸時代の終わりごろには鹿島神宮の神・鹿島明神は江戸庶民に大きな人気を博し、ここの「大鯰」と「要石(かなめいし)」も有名になります。それは安政の大地震をきっかけとしたものでした。鹿島の神=鹿島明神が大地震をおこすと信じられた大鯰を押さえつける図です。鹿島明神は鹿島神宮にある「要石」と同義ともされ、ナマズは古来、水の精です。それはこのような喩えによって自然の摂理を教えたものかもしれません。そして面白いことに、小さな鯰男が多数あらわれて江戸の街の復興を手伝う、という錦絵も流行りました。そこに隠されている知恵は、おそろしく深い、哲学的なものかもしれません。
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茨城県鹿嶋市の鹿島神宮。広い照葉の岬全体が古来、神聖な地とされたのだろう。神域は広く樹叢は十九万坪におよぶ。写真は鹿島神宮の奥宮。徳川家康が造営、のちに三代徳川秀忠が奥宮として現在地に移転、別に現在の本殿を建てた。この後方へ少し歩いたところに鹿島神宮の一つの象徴的な場所である『要石』がある。
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『御手洗池(みたらしいけ)』には一日に四三二キロリットルの水が涌きだすとのこと。古くはここが鹿島神宮の入り口だった。規模はちがうが、連載第四回にとりあげた東京の目黒不動とよく似た構成だ。一面の照葉の森、杉などには圧倒される。太古の人々はこういう場所に『龍神』の存在を感じそれを「カカ」などと呼んだのだろう。現代人がこのような場所にすがすがしい強い精気を感じるのと、それは同じことだろう。
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大鯰と鹿島明神の伝承は有名で、境内にも鹿島明神が大鯰を押さえつける像が飾られている。近くには『要石』もまつられている。
※写真はクリックすると拡大します。
今回から連載のタイトルのスタイルを少し変更しています。


 

2023年05月08日(月) 古流の花だより

免状式が開催

4月16日に金沢市大工町の古流家元花庵=華林苑で免状式が開催されました。
古式にのっとって式は開催され、新たに師範、上席師範、家元之師範代になられた方々が家元先生から免状を受けられました。
写真は式の模様と関係の先生方を交えての記念写真。
控室には4代関本理恩家元の軸「花道記」が飾られました。20230508133637-karinen.jpg20230508133714-karinen.jpg20230508133805-karinen.jpg
写真はクリックすると拡大します。


 

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