アジア古来の哲学と自然と芸術

彩流華 華林苑

Sairyuka art and old Asian philosophy rooted in nature.

古流の花だより


 

2021年07月22日(木) 古流の花だより

第28回富山県いけ花作家協会展(5/28~30)その3

次の方々が出瓶されました。
高森理世-深松紫濃
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2021年07月20日(火) 華林苑 花日記

栂を生ける

 「栂」とかいて、地域によってはトガ、ツガと微妙にちがう呼び方をしているようです。じっさいに植物としての違いもあるようで、林業においては別のものとして区別するという話を伺ったことがあります。ここで生けたのはツガでしょうか?
 アスナロは石川県ではアテとよばれ、漢字は「档」です。さまざまな説があるようですが、貴い、という意味とする説がなんとなくしっくりきます。
華型は禮華(れいか)です。
  華、花器の意匠/華林   花器制作/荒木実
 栂、アスナロ、三つ葉ツツジ、ヒオウギ、鶏頭、キリフキソウ、クジャクソウ
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2021年07月19日(月) 華林のブログ

日本三霊山

 富士山、白山、立山は日本三霊山とよばれます。東海地方あたりの修験者(山伏)などがよく口にした言葉かと思われます。
 富士山のふもと、駿府にあった徳川家康は白山信仰にも篤かったと言われますが、東海地方は戦国大名を輩出した場所で、白山の牛王印(お札のようなもの)の裏に起請文を書いた大名は家康にかぎらず何人も知られているようです。「白山神」は、戦乱の世にあって大名たちにはウソ偽りの許されない重い存在だったのでしょう。
 さて、富士信仰の神社はおもに浅間神社ですが、なぜ『浅間(せんげん)神社』という名前なのかは謎とされます。富士山は言うまでもなく広く深い信仰の対象でした。にもかかわらず、浅間神社の名前の由来がはっきりしないのはなんとも不思議な話です。
 いっぽう、石川県白山市鶴来町にある白山本宮では、明治初頭の神仏分離の政策のなかでいきなりシラヤマヒメ神社とされ、その聞きなれないご神号に戸惑う様子が白山史料集「祭神問答」にもみられます。シラヤマヒメとまつられる例は隣県の若狭小浜(福井県)にも複数あったことが近年の発掘調査などで知られます。日本では漢字は古来「あて字」で、さまざまな漢字で『シラヤマヒメ』と記されまつられるケースが九州にいたるまで広範囲にわたっています。
 立山は古くはタチヤマとよばれご祭神はイザナギ神、アメノタチカラヲ神また地元ではタチヲ天神です。前述のように日本では漢字は古来「あて字」で、ここでは「タチ」という音が印象的です。
 三霊山にかぎらず、近年では自然の行き過ぎた開発が痛々しく感じられることが多々あり、最近の熱海の土石流にいたるまで数多くの厳しい結果を招いています。目先の経済効果だけで三霊山を売り物にするのではなく、それらの自然が大きな枠組みのなかで人々をはぐくむ深い知恵に言及する政治家、経済人が見あたらないことにも、大きな危惧を覚えます。
 

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立山からみた雲海のなかの白山(奥の山)
2019年10月


 

2021年07月19日(月) 古流の花だより

第28回富山県いけ花作家協会展(5/28~30)その2

次の方々が出瓶されました。
若林穂月、永井智穂、吉田倭美
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水野渡月、村井倭舟-秋村倭映、竹内倭日
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長谷川倭友-吉本春穂、田嶌詩賀穂、渡邉理倭-吉野理白-森沢華穂
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平野美紀穂、堀倭雅-山本弘穂、野上妙葉
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2021年07月06日(火) 華林苑 花日記

〝月草〟 の掌華

 万葉集では月草(つきくさ)とよばれるツユクサ。古来、紫は〝高貴な色〟とされ、野にあって天の月を映す高貴な花と考えられたのでしょうか。月は天における陰の象徴、そして陰の本質をあらわす色は、アジア古来の哲学では紫なのです。
 生けた場所は金沢の華林苑、7月6日。前日に小松市の元田様にいただいたツユクサです。
  華/土橋穂美 陶器/華林
 小さな生け花を、手のひら(掌)の華、〝掌華(しょうげ)〟と呼んでいます。
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2021年07月05日(月) 華林苑 花日記

 江戸期の「軸と花」の系譜 … 1

 華林苑には江戸期のさまざまな生け花の書物が残されています。
 『立花訓蒙図抛入百瓶之花型』は元禄9年(1696)に出版されたもので、○○訓蒙図彙などの名前がつく多くの同様の書は、ヒットした『訓蒙図彙』(きんもうずい/中村惕斎/寛文6年(1666=図入り百科事典とされる)のあとに続いた多くの出版物です。『仏像図彙』などなど、古書店の多い金沢の街ではかつてはよく扱われていたようです。
 いけばなの書は江戸時代に入って出版産業がさかんになるころから上方を中心に数多くあったようで、そのなかでも立花とも茶花ともちがう新たないけばな「なげ入れ(抛入)」にかんするものではこの書はごく初期のものではないかと考えられます。「床の間」のスタイルが確立して普及しだす江戸初期では、立花も茶花も床の間にとっては最適なものとは言えず、必然的に生まれてきた花といえるでしょう。そしてこの時期(元禄年間)にこれだけの書がつくられるということは、それよりも一定期間まえから「なげ入れ」がおこなわれていたと考えるべきです。そして元禄のころからは京都、大坂にくわえて江戸にも版元がふえていったようで、つまり江戸でも芸道文化が花開きはじめます。
 このページの軸の哥は藤原俊成の「むかし思ふ草の庵の夜の雨に泪な添へそ山時鳥」で、新古今集にみられるものです。この種の書をみていると、同じ和歌でも今日一般的に伝えられる字句とすこし違うものがみられる場合が少なくないようで、ちがうままに味わうのもいいと思います。また、哥の解釈以上に言葉の響きや単語の意味の深さといったものを楽しみたいと思います。ここでは母音が続くと一文字にしか数えないという万葉集などの「字余りの法則」が部分的に生きているようで、音の響きにはなおのこと敏感でありたいと思います。さらには、あのホトトギスのまるで異次元からきたような鳴き声を思い浮かべることができれば、さらなる幽玄の世界に浸ることもできるでしょう。
 花は卯の花(うのはな)、鷹の羽薄(たかのはすすき)と読めます。器の名前を各頁の題名としており、「菱口」は器の生け口の形によるものでしょう、器が花にとって絶対的に重要であるという室町・同朋衆いらいの感覚と思われ、軸と花の関係を重視するのも同様です。立花ではこの感覚は失われ、絢爛豪華を競い合う『花会』という道を歩んでいきました。
 図の上の解説文はずれ込んでおり、この図の解説文は2ページほど前にあります。また図の左上には「夏花」とあり、四季ごとの構成となっています。   (華林)

むかしおもふ くさのいほりの よるのあめに なみだなそへそ やまほととぎす
〔図はクリック、タップすれば拡大します〕
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