華林のブログ
2023年05月31日(水) 華林のブログ〝アヅマ〟の意味⑤ 菅原道真と武家文化
――江戸・東京の霊的構造 その9
武蔵の国のなかの〝ヤマト〟
さて、奈良・京都の都からみて東国は、ここまでの連載で見てきたように「異国」といった側面があり、そこは不気味でありまた大きな魅力を感じさせる場所でもありました。平将門の乱や鎌倉幕府はそんな東国の力を示すものであり、室町幕府も開幕の地を鎌倉とするか京都にするかで迷ったと言われます。足利氏自体が古代の東国・下野国(栃木県)を出自とした高い文化を誇る一族であり、戦国大名や徳川家康も同じ武家の先達として足利尊氏を深く尊崇していました。南北朝の時代にも南朝の要である北畠親房は東国の常陸の国(茨城県)に渡ってこの地域の武士などを味方として南朝の勢力を復活させようと企てました。九州など西の地域にも政権をゆるがすような事件はありましたが、大きな原動力となったのは圧倒的に東国の力でした。とくに武家の社会となってからは、東国の存在は非常に大きな意味を持っていました。
西=京都を中心とした地域と、東=東国の文化的な違いがはっきりとしだしたのは、南北朝合一が大きな契機となったものと思われます。それ以前には、中央政権においても二つの文化の系統が混然としたなかにあり、その時々で両者はしのぎを削っていたものと思われます。たとえば平安時代中期の早い時期、菅原道真と藤原時平の例はそのもっとも顕著なものだったでしょう。二人は同時代の政治家で、菅原道真は藤原時平の謀略によって九州の太宰府に左遷され憤死、のちに「天神」として祀られるという日本独自の信仰形態をたどります。
菅原道真は古代の土師(はじ)氏の出身で、現在の大阪府藤井寺市あたりは土師氏の本拠地でした。ここには道明寺(どうみょうじ)と道明寺天満宮がありますが、明治の神仏分離令以前には両者は一つの大きな寺社で、一本の檜から菅原道真自身が彫ったと伝えられる十一面観音像(国宝)や道真ゆかりの品々が残されています。
本地垂迹説では天神の本地は観音とされ両者は同じ信仰とされますが、「天神」としてまつられるようになった菅原道真にゆかりの道明寺に菅原道真の自刻の十一面観音像が祀られており、菅原道真=天神信仰はまさに観音信仰から生まれたかのような側面があります。江戸時代の有名な「曽根崎心中(近松門左衛門)」も舞台は大坂・曽根崎の『露天神』の森で、観世音菩薩が大きな役割を占めるというストーリーでした、天神の本地仏が観世音菩薩であることはかつて常識だったのでしょう。
本地垂迹説あるいは神仏混交の流れは平安時代にはかなり確たるものとなっていますが、いっぽうで、伊勢神宮その他一部の神道では仏事や僧侶を好まない系譜も古くからあったようです。当時、伊勢神道は今日ほどには存在感は強くなく、江戸期に古事記が契沖などによって研究されて以降、その勢いを増していったものと思われますが、平安時代などは歴代の天皇においても仏教、とくに観音信仰や不動信仰を中心とした流れに対しての信仰心にはかなりの温度差があったようです。
古代から中世にかけての天皇家におけるこのような状況が決定的に変化したのは南北朝合一、後小松天皇以降と思われます。
これ以降、観音信仰や不動信仰、またそれと表裏一体となる神々への信仰は、「武家文化」と「天皇・公家文化」を識別する指標ともなっているようです。それは明治維新にいたって激しく顕在化することとなり、あの神仏分離、廃仏毀釈がおこなわれたのです。また、あまり知られていませんが、神道系でも観音信仰以上に激しい弾圧をうけたものがありました。当時は古神道の性格が強かった天理教や陰陽道系の神道などは、同じ神道でありながらも当時の伊勢神道=国家神道とは相容れない性格を有していたものと想像されます。
このような側面をみてゆくと、「武家文化」が関東など東国に強い力を持ったのは、この地に観音信仰などを受け入れる精神的・風土的な素地が古くからあったためと考えられます。その端緒は古墳時代、弥生時代あるいは縄文晩期までさかのぼる可能性もあると思います。
さて、南北朝合一以降の南朝、いわゆる「後南朝」は紀伊半島の吉野から最奥の十津川まで後退しながら、北朝と相容れない古い皇室のなんらかの文化を堅持していたものと思われます。以降、後南朝の流れは平家の落武者のように全国へ散ったのかもしれません。しかし、そのなかには興味ぶかい文化がみられることがあります。それは往々にして北朝系の人たちにとっては認めたくなかったものだったようで、たとえば北畠親房が神皇正統記のなかでふれている「徐福(徐氏)」などはその最たるもののひとつです。そんな歴史も今日では融解して、お互いの文化の差異を認められる時代になっています。![]()
道明寺天満宮。かつては道明寺と同じ寺社で、古くは土師寺と呼ばれた。菅原道真は土師氏の出身で、ここは古くから土師氏の根拠地で道真もよく訪ねた。太宰府へ左遷されるときもここに立ち寄り、伯母の覚寿尼に別れを告げたとされる。菅原道真ゆかりの品が多数遺される。大阪府藤井寺市。
道明寺は現在は真言宗系のお寺。道明寺天満宮のすぐ近くにある。菅原道真の自刻と伝えられる十一面観音像を本尊とする。いかにも密教寺院らしい雰囲気がある。かつては道明寺天満宮と一体、つまり『土師寺』の一部だったが、明治の神仏分離で少し移動、また名前も道明寺天満宮と道明寺とになって分かれている。
2023年05月13日(土) 華林のブログ
〝アヅマ〟の意味④ 『鹿嶋』
――江戸・東京の霊的構造 その8
武蔵の国のなかの〝ヤマト〟
全国に「鹿島(鹿嶋=かしま)」の地名は多く、私が実際に訪れたそれらの場所では共通した特徴があります。海ぎわで、岬あるいは類似の地形、つまり海の近くの小高い岩場で、ツバキ、タブノキ、スダジイやヤブニッケイ、サカキ、シロダモなどの照葉の常緑樹の樹々が生い茂っています。多くの場合、樹々は海ぎわに特徴的な姿をしています。それらの樹は豊富な地下水脈がなければ育たない種類のもので、その場所が遠くから続く山系の岩盤の連なりの先端となっているのです。つまり、地下水脈は岩盤の連なりがあってはじめて生まれるもので、相当量の地下水脈があるということは、じわじわと長い年月をかけて滲み込むように伝わって移動してきた水なのです。近くに湧水があれば水質調査が行われることもあり、何百年、あるいはその十倍、百倍の歳月をかけてゆっくりと移動してきた水であることが判明することもあります。地下水ですからいわゆるミネラルウォーターなので、天然のとても美しい水、人間にとっては美味しい水、ということにもなります。
さて、全国の「カシマ=鹿島」のなかでもっとも有名な場所が茨城県鹿嶋市の鹿島神宮です。今日ではむしろ鹿島アントラーズの名前で知られる地名かもしれません。鹿島神宮は奈良時代よりもさらに以前から朝廷や中央においてよく知られる存在だったようです。そして鹿島神宮の神が「タケミカヅチ神」と定められたのはその後の時代でした。そのため、全国に数多くあるカシマ(鹿島)と呼ばれる地にはタケミカヅチ神が祭られることは意外と少ないようです。
古く、全国の鹿島は香島、加島、可志麻、変わったところでは所聞多などさまざまに表記されていました。以前にも述べたように、古い時代の日本語には発音だけが存在し、それに渡来の漢字の音を当てはめていったという経緯があるので、同じ言葉にさまざまな異なる漢字が当てはめられるということが起こっています。またときにはそれ以外の理由でさまざまな漢字が当てはめられました。たとえば「所聞多」をカシマとよむのは、「やかましい」「うるさい」の意味の「かしましい」が漢文的に表記されたところからきていると考えられ、やや後の時代の表記です。「かしましい」は必ずしも悪い意味ばかりでなくて「有名」というニュアンスも少なからずあると思います。それは、つい近年まで有名であることを「やかましい」と表現していたのと似ています。さらに古い朝鮮語「所聞」も似た意味のようです。
また「鹿児島」や大和三山の一つ「天の香具山」も同じ語源からきている、とする説も目にします。ここではツバキ、サカキなどの照葉の美しさを古代には『かぐはし』と表現したことからきた考え方と思われます。鹿児島半島は海ぎわの多雨地帯で照葉樹林が有名です。大和三山のなかでも突出して霊山とされた「天の香具山」は小さな山ですが、畝傍山、耳成山とちがいここだけが古来霊山の極みとされた吉野や熊野をふくむ紀州の峻険な山地の連なりの突端となっており、山系が海ではなく平野へ延びるときの「端」の位置になります。樹々の相もどこか全国の鹿島の地に似ています。「端(ハナ)」は岬の名前にもよくつけられる言葉ですが、これとよく似たニュアンスなのでしょう、「ハナ=先端」が貴いというのは太古のヤマト以来の感覚でしょう。
さて、古代の有力氏族は自らの出自を鹿島神宮のあたりと名のった例があります。それは必ずしも真実ではないとされることも多いようですが、その氏族は氏神をタケミカヅチ神として奉斎し、この神は奈良・京都で大きな存在感をみせます。つまり、アヅマの国の鹿島神宮は奈良時代、またそれ以前にも朝廷・中央政権やその周辺で非常によく知られた場所だったといえ、それに何かの理由で「タケミカヅチ神」を習合させていった、という順序が考えらます。古代、飛鳥時代やそれ以前から「アヅマの国」はけっしてたんなる未開の地ではなく、実に不思議な存在感のある地だったのでしょう。そんなところから、知られざる古代の歴史の実像が見えてきそうです。
江戸時代の終わりごろには鹿島神宮の神・鹿島明神は江戸庶民に大きな人気を博し、ここの「大鯰」と「要石(かなめいし)」も有名になります。それは安政の大地震をきっかけとしたものでした。鹿島の神=鹿島明神が大地震をおこすと信じられた大鯰を押さえつける図です。鹿島明神は鹿島神宮にある「要石」と同義ともされ、ナマズは古来、水の精です。それはこのような喩えによって自然の摂理を教えたものかもしれません。そして面白いことに、小さな鯰男が多数あらわれて江戸の街の復興を手伝う、という錦絵も流行りました。そこに隠されている知恵は、おそろしく深い、哲学的なものかもしれません。
茨城県鹿嶋市の鹿島神宮。広い照葉の岬全体が古来、神聖な地とされたのだろう。神域は広く樹叢は十九万坪におよぶ。写真は鹿島神宮の奥宮。徳川家康が造営、のちに三代徳川秀忠が奥宮として現在地に移転、別に現在の本殿を建てた。この後方へ少し歩いたところに鹿島神宮の一つの象徴的な場所である『要石』がある。
『御手洗池(みたらしいけ)』には一日に四三二キロリットルの水が涌きだすとのこと。古くはここが鹿島神宮の入り口だった。規模はちがうが、連載第四回にとりあげた東京の目黒不動とよく似た構成だ。一面の照葉の森、杉などには圧倒される。太古の人々はこういう場所に『龍神』の存在を感じそれを「カカ」などと呼んだのだろう。現代人がこのような場所にすがすがしい強い精気を感じるのと、それは同じことだろう。
大鯰と鹿島明神の伝承は有名で、境内にも鹿島明神が大鯰を押さえつける像が飾られている。近くには『要石』もまつられている。
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今回から連載のタイトルのスタイルを少し変更しています。
2023年04月29日(土) 華林のブログ
江戸の〝霊的骨格〟7 『アヅマ』の意味➂ 近世、文化の『東下り』
下らない、という言葉があります。つまらない、価値がない、といった意味です。
その語源をウエブなどでみると、京・大坂の上方から面白い文物、価値のある文化だけが江戸へ「下って」きたので、下ってくる価値のないようなものを『下らない』と言ったことから始まっているようです。その根底には「東下り」などの古くからの言い回しがあるでしょう。
徳川幕府がひらかれた江戸はまだまだ文化に関しては成熟しておらず、元禄時代の爛熟した文化は依然として上方が中心だったようです。江戸時代もなかばになり、やっと江戸の地で文化が成熟しはじめたとされます。
大きな目で文化をみると、上方から江戸へ数々の〝選ばれた〟文化が下ったことは、新たな文化の潮流ができる大きなチャンスだったと思われます。文化は徐々に成熟するものですが、ときに、ヘビが脱皮するように大きく変わることがあります。旧来のしがらみを断ち切り、生き生きとした新たな文化が生まれるのです。
ヘビは、古代の日本人にとって非常に象徴的な生き物であったという考え方があります。独自の視野を展開して話題をよんだ民俗学者の吉野裕子氏はヘビを祖霊と考えた古い日本人の思想について詳述しましたが、日本でもっとも古い神社といわれる三輪山(三輪神社)の神はときにヘビと表現され、いまだに卵をお供えする風習があるようです。人類最初の祖霊神と位置付けられるイザナギ・イザナミ神と同義とされる大陸のフッギ・ニョカ神もまた、上半身は人間ですが長い下半身は蛇体で表現されます。
ヘビは「龍」と似た概念ですが、ときに違う側面もみせます。古代人がヘビにみたものは、脱皮して成長してゆく強い生命力であり、脱皮という成長のしかたです。そして、神も人間社会も、徐々に成長することもあれば、ときに脱皮して大きく生まれ変わるのです。それは熊野などにみられる「蘇生」や、山岳修験とくに白山系の信仰に色濃い「擬死再生」の哲学にも似ています。
日本の伝統文化は京都を中心に爛熟し、江戸が都市として発展することによって新天地を得てまさに脱皮するような成長を見せようとしていたように思われます。京都からみれば江戸は田舎者の新参者の文化、江戸からみれば京都は因襲にとらわれた旧弊な文化、だったことでしょう。たとえば絵画の世界なら、圧倒的に京都・上方に純粋芸術が質・量を誇っていたのが、京都から江戸に本拠を移した狩野派(探幽)以降、京都とはどこか違う質実剛健な作風がうまれ、ついで錦絵などの出版文化の普及にともない民間の絵師の自由な画業がふえ、ついには北斎が小布施に残した肉筆の天井画などの飛躍的な作品が生まれます。北斎個人の才能があったがゆえなのはもちろんですが、江戸という時代が大きな文化の脱皮に向かわせたことも間違いないと思われます。
また地方においても質の高い文化の萌芽がみられ、和歌の世界でも福井(越前)の幕末の国学者・橘曙覧は古今伝授のテクニックにとらわれない魅力にみちた明快な和歌を詠んでおり、明治時代には正岡子規が着目して全国に広く知られるようになり、さらに折口信夫なども高く評価しました。
京都・上方から江戸へ、そして地方へ、という文化の流れは江戸末期にはっきりとみられますが、そこで起きた明治維新は文化の世界にも激震を起こし、いわゆる武家文化は一挙に凋落します。たとえば徳川家康が『式楽(公式の音楽、芸能)』とさだめた能は大きな痛手を受け、能面を打つ人は皆無になったとも言われのちに復活するのはすべて独学によったものと思われます。
すなわち、脱皮してあらたな局面を迎えるかにみえた日本の伝統文化はここに頓挫してしまいます。同時に、江戸時代までは文化人たちには常識であった陰陽五行の哲学やそれと一体となった太陰太陽暦もまた一挙に忘れ去られます。廃仏毀釈以上に陰陽道などの古来の哲学・宗教は弾圧され、暦も太陽暦となって五行の哲学は徹底的に消された感があります。北斎や光琳などの画業、源氏物語をはじめとした古典文学や説話類も五行の哲学にのっとっている部分が非常に多いことすら理解されなくなりその魅力は半減してしまいました。
生け花においても同じことは起こりました。武家文化の性格が強く、とくに江戸で一世を風靡した生け花『生花(せいか)』は一挙に壊滅状態に陥ります。ようやくぼつぼつと復活したのは、能よりもさらに遅い時期だったと思われます。
江戸時代なかば、ようやく江戸の地にも新たな文化が芽生え始めたころに出版された『江府(江戸)名勝志』より。十八世紀中葉、享保十八年から明和元年にかけて新訂版など数種の異本があるようだ。板元はいずれも江戸。写真は華林苑蔵のもの。この書の半世紀以上あとの江戸後期には、よく知られる『江戸名所図会』が資料的にも読み物としてもより完成度が高いものとして板行される。それは江戸の文化が成熟してゆく過程でもある。◆写真上/上巻では武蔵国周辺の全体図からはじまり、各地区の町名や名物が羅列して説明され、住宅地図のような図が添えられる。写真は神田から柳原にかけての頁◆写真下/『寺院略記部』ではおびただしい数の寺院名が地域ごとに列挙され、宗派や本尊などが説明される。芝、三縁山増上寺の項(写真)では絵がそえられ、本尊や四十を超える坊中寺院の名前、山門や釣鐘などについてこと細かな説明が添えられ、別格の存在であったことが知られる。
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2023年04月14日(金) 華林のブログ
江戸の〝霊的骨格〟6 『アヅマ』の意味➁ 東下り
「東下り(アズマクダリ)」は平安時代からの「流行り」だったと言えます。和歌の世界の随一の変わり者、伊達者の在原業平を主人公としている、と言われる伊勢物語(平安時代、作者不詳・諸説があります)では「東下り」の段がつとに有名で、室町時代から江戸時代にかけての文化人にもたいへん好まれています。主人公が東国へ旅する三つの場面にそれぞれ和歌が展開されますが、ストーリーはごく単純で和歌は明快な表現、どこか世阿弥の夢幻能を想わせる言葉=謡曲/和歌中心の呪術的な世界です。
最初の場面は三河の国(愛知県)の八ツ橋。ここでカキツバタを詠んだ和歌は非常に有名で、五七五七七の各句の初めにカキツハタの五文字を置いた和歌は、言葉の遊びがそのまま和歌の強い呪術性となっておりまさに「言霊」の世界です。八つ橋という地名も印象的で、『三河』は古くは「水河」とも書かれ、この八つ橋の地は古くから「美しい水」で知られた名所だったようで、蜘手つまり四方八方にクモの巣のように美しい水の流れがあったとされます。
次の場面は駿河(静岡県)の「宇津の山」が舞台です。宇津は「ウヅ(ウズ)」とよみますが、記紀の伝授では「貴」をウヅとよませており、このウヅという発音は古くは「貴い」の意となっています。「宇津の山」は「貴い山」からきた名前でしょう。駿河の宇津山、隣接する宇津谷(うつのや)峠(静岡市)は八ツ橋と同じくかなり古くから「名所」として知られていたようです。
この宇津の山の場面で次に登場するのは遠くに見える富士山です。「比叡の山を二十ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける」とその圧倒的な高さと円錐形の美しい姿を形容しています。京都の北、琵琶湖の西の比叡山は京の人々にとって心のよりどころとも言うべき山だったので、ここでは比喩に最適なのでしょう。
最後の場面は、「武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる川あり。それをすみだ川といふ。」と、今日の東京・墨田川まで飛んでいます。前回のべた平安時代の円仁の足跡もこのあたりに色濃く、南北朝時代には花山院師賢もここで和歌を詠んでいます。伊勢物語と師賢の和歌に登場する『言問』や『都鳥(ユリカモメのこと)』はのちに橋の名前になるなど名物として定着し今日にいたっています。
江戸時代には数々の「名所図会」や浮世絵版画など絵をそえた出版文化で人々の心をそそった全国の「名所」は、平安時代から中世には歌枕、つまり和歌という手段で人の心をとらえていきました。絵や写真をみて私たちが行ってみたいと思う名所を、かつては和歌という言葉の力でその魅力を伝えていたのです。それが往年の和歌の文化のすごさと言えるでしょう。そして平安の都からみた東の国々は、魅力的な歌枕=名所、そこにはパワースポットといったニュアンスをふくんでいたと思われますが、そんな名所が多数存在する「異国」ととらえられていたのでしょう。修験者・求道者という側面を持っていた西行をはじめ多くの人々が「東の国」をめざして旅をします。
そして平安以来あるいは奈良時代以来の「東の国」の「歌枕」のテーマは、室町・江戸の文化人たちに受け継がれていきます。そこでは始めて「床の間」という舞台が登場し、和歌の伝統は掛け軸や生け花と合体して日本独自の伝統芸術となっていきました。
室町時代中期から後期の東常縁(美濃篠脇城主)は古今伝授を受けた歌人としてつとに有名で、官職が下野守だったので東野州(とうやしゅう)ともよばれますが、この人が伊勢物語・東下りの「八つ橋」の故事を受けて歌会で「からころも … 」の和歌の軸をかけそこにカキツバタの花を生けた、という故事は有名だったようです。ほぼ同時代には、銀閣寺(正確には東山山荘の会所)で同朋衆が足利義政のために西行が『遊行柳』(栃木県那須町、白河の関の近くの話として定着してゆく)で詠んだ和歌にあわせて七官青磁に水草を涼し気に生けた、という伝承などもあったようで、この時期に和歌をベースとして「花・軸・器」の床の間の芸道が完成していったと考えられます。歌枕は屏風絵など絵画の題材にもなり八ツ橋では尾形光琳の燕子花図屏風が有名ですが、ここへきて花、軸、器による総合的な「床飾り」として新たな美の形を切りひらいてゆくのです。そしてそのテーマとして「東国」は欠かせないものでした、神楽歌で「東遊び」が欠かせないものであったように。
江戸の生け花・古流の四代家元関本理恩『櫻の志津玖』より(晩年、幕末~明治初頭の書)。伊勢物語の「かきつばた … 」の軸にカキツバタを生けた図。その説明には、東野州がかつてこのように生けた、と記される。またこれより百年ほどまえ、江戸時代なかば明和年間に江戸と京都で出版された『抛入華之園』(禿帚子著)によく似た図が同じく東野州の故事の説明とともに掲載されており、生け花が豪華絢爛を競う『立花』から和歌・歌枕を組み込んだ内省的な床の間の芸術『なげ入れ』が生まれる過程を示している。和歌は「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」
往古の「東の国」の歌枕=名所・隅田川には今では東京スカイツリーが聳える。この地の有名な牛嶋神社(うしじまじんじゃ)は平安時代初期に慈覚大師円仁が創建したと伝える。スサノヲ神をまつる。以前は「牛御前社」と呼ばれており江戸・本所の総鎮守。牛御前社の御前は「ミサキ=岬」から転化したとも言われるが、江戸名所図会では大きな川にいくつもの突き出した岬のような地形がみられる。埋め立て前の太平洋も近かったと考えられ、都鳥=ユリカモメに象徴されるような海の気配をふんだんに感じさせる場所だったのだろう。「牛」は天神のみならず牛頭天王と習合したスサノヲ神にもなじみのもの。周辺は白髭神社や三囲神社など強い個性の古社があり魅力的な七福神のコースにもなっている。伝統芸能が息づく向島の料亭街もとなり合わせだ。伊勢物語の和歌は「名にしおはば いざ事とはむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」。「古今集」にも在原業平作としてある。
牛嶋神社。昭和7年にやや北にあった社殿を現在地に移した。隅田公園の一隅にあり池もあって木々も美しい。
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2023年03月21日(火) 華林のブログ
江戸の〝霊的骨格〟5 『アヅマ』の意味➀ 万葉集と菊
江戸・武蔵の国は、古い区分では「東国」に含まれます。
「東国」は時代によって指す地域がやや変化するようです。その「東国」のさらに古い呼び名が「アヅマの国」です。
「東」という字は「ひがし」、そして古くは「ひむかし」などとよまれました。音読みすれば「トウ」です。ただし、日本には古いヤマト言葉があり、それに外来の漢字をあてはめた、という歴史があります。いちばん古い例が万葉仮名です。つまり、「ひがし」というヤマト言葉にその意味の漢字「東」をあてはめ、同時にこの漢字の中国でのもともとの発音「トウ」も残り、いわゆる訓読み、音読みとなったわけです。
さて、「東」のもう一つの訓読みに「あづま(あずま)」があります。古くは「あずま」ではなく「あづま」です。では、「東」を意味する古いヤマト言葉に「ひがし」と「あづま」という二つの語があったのか?という疑問が生じます。そこでこんな説があるようです。
アヅマはもともと「東」意味していたのではない、アヅマが意味する「あるもの」が東方や東国にある、という伝承や考え方があり、そこから「東」をアヅマとよぶようになった、というものです。
同じことを意味するヤマト言葉が並列して二つあった、というのは確かに不自然なことかもしれません、まして方位は現代以上に当時は重要なことでした。
そうだとすると、「アヅマ」がもともと意味していたものは非常に重要なコトだったのではないでしょうか。「東」はどんな場合でもアヅマとよまれるのでなく、アヅマの国、アヅマ遊び、アヅマ歌、アヅマ下り、などの限られた場面にしか出てこないよみかたなのです。
古代の神楽歌にヤマト歌とならんで「東遊(アヅマアソビ)」が採用されています。京都近辺の文化ではなく駿河(静岡県の一部)など、当時の東国の歌です。当時の中央集権の意識を考えると意外なことです。神楽歌は神まつりの余興でなく、神まつりの純粋な一部だったことでしょう。前回などにも書いたように、日本では「言霊」は非常に重要なもので、とくに神まつりでは主役にあるべきものです。祝詞は奏上するにしても、ときにかがり火を焚いて夜を徹して神招ぎするのも神楽歌によってでした。つまり、母音を驚くほど長く発音する神楽歌は強烈な言霊だったはずです。そしてときに「韓招ぎ」つまり大陸の神を迎え、ときにヤマト歌でした。さらに「東遊び」です。
それらに関してはいろいろな見解があると思います。さらに、万葉集では東歌(あづまうた)が少なからぬボリュームで存在しています。東歌は当時の発音の法則からみて五七五七七を厳格にまもっている点から、高度な、進んだ文化であるという見解があるいっぽうで、編纂の段階で手を加えられた、とする人もいるようです。古事記・日本書紀が当時の政権に都合のいいように事実を大きく歪曲して伝えていると言われることが多くなっているのと同様に、同時代の万葉集もかなり意図的な方針で編纂されていると考えるのが自然でしょう。しかしながら、万葉集が当時の魅力的な言葉の響きの宝庫であることにかわりはないのですが。
万葉集に「菊」が登場しないことから、当時は日本に菊の花がなかった、というかつての説は、ここへきて少し無理が感じられます。当時の「菊」は一部の人が提唱するように野菊、つまり山野にある小さな菊を考えるべきと思います。陶淵明の有名な「東籬の菊」は遣隋使や万葉集のかなり前の詩です。しかし、「菊」という字は当時の日本の書物にただ一か所、日本書紀に関わる書に「菊理媛」という神名として登場するだけです。ここではキクではなく中国語のままクク(ククリヒメ)とよませていたようですが(中国語の古い発音に関しては若干自信がありません)、菊=ククが当時の為政者たちにとっては好まれない言葉だった可能性はあると思います。政治の中心であった「神まつり」において重要な位置を占めたのは「言霊」ですから、言葉の発音にはかなり神経質であったはずです。
いっぽうで、大陸の神(韓神)を招くような神楽をしていた人たちが、道教的な知識のなかで「菊=クク」の文化を知らないはずはなかったと考えられ、意図的に「菊」を除外した可能性は高いと思われます。菊の文化が市民権をえるのは、菊のよみかたが「クク」ではなくて「キク」に定着してから、という可能性は高いと思います。
なんだか話の脱線がはなはだしいようですが、お許しください。以下に続く大切なことです。
ノコンギクは古来の『菊』のなかでも代表的なものと考えられる。山野のいたるところに、晩秋に咲く。「万花の最後に咲く」と言われるのを実感させる花だ。岐阜県郡上市白鳥町前谷にて。
リュウノウギクは現代ではなかなか見つけられない菊。しかし今日の園芸品種のいわゆるイエギクを縮小したような姿をしており、原種とされることも。ゲノム解析で解明されるのが楽しみだ。これは残念ながらまだ固い莟。紀伊半島の山地にて。北陸、金沢の三輪山のふもとにかつて住んでいた古老にお話をうかがったことがあるが、切り立った崖の上部から湧き水が瀧となって流れる岩場の上で群生しているリュウノウギクの花は、軽く叩くと樟脳に似たとても良い香りがしたという。まさに古来の「菊水」「菊慈童」を思わせるゾクゾクとするような話。
リュウノウギクのお隣りに生えていたイワヒバ。よく似た岩場を好むようだ。
リュウノウギクの写真をとった場所、紀伊半島の熊野の奥の玉置山の巨大なヒノキ。こんな木が生えるような深山にリュウノウギクもみつけられそうだ。ここは標高千メートルくらい。
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2023年03月17日(金) 華林のブログ
江戸の〝霊的骨格〟 4 円仁の存在
前回にふれた江戸時代初期の高僧・天海は、江戸を中心として驚くべき霊的な構造をつくりだしたと言えます。そのもっとも分かりやすい、そして独創的・画期的な例が「七福神」でした。もちろんその他にも鬼門、裏鬼門という方角を重視したこともよく知られます。鬼門・裏鬼門への配慮は武家一般に多くみられます。
七福神に「五行=木火土金水」の哲学をひそませたことは前回に書きましたが、鬼門・裏鬼門も五行の哲学を方位にあてはめたものです。ふつうは東西南北と中央を五行にあてはめ、たとえば南なら五行の火、そこに配する神は増長天/原意は=大きくなる神=「火」の属性、といった具合です。北なら多聞天/原意はよく聴く神=五行の「水」の属性、です。ところが、鬼門=北東は中間の方角で、これは同じ五行でも三合の法則などと呼ばれる、太陽や季節よりも月を重視する場合の五行の考え方によるものです。北東は方位における「原点」のような方角で、五行の哲学ではここが「始点」となります。
さて、天台宗の中興の祖とされる天海ですが、天海が江戸の地で強烈な霊的な構造をつくりだした背景には、そのおよそ八百年まえ、同じ天台宗の高僧・円仁の存在があります。
円仁は仏教界、というよりも山岳修験など神道もふくめた日本の宗教・信仰の世界における実に巨大な存在です。明治以降、その存在感は一挙に薄れたように思います。
天台宗は、もともとは国家鎮護、皇室の護持のための祈とうを行ってきた宗派です。鎌倉時代、ここで学んだ法然、親鸞、日蓮、道元をはじめ多くの秀でた僧が天台宗・比叡山をはなれ民衆に重点を置いた新たな宗派をつくったことはよく知られますが、そこには比叡山が堕落していたという事情もあった、と説明されることもあるようです。優れた僧が現れて宗勢が伸び、しかし代替わりで時代を追うごとにマンネリ化して権威主義におちいる、という図式は少なくないようですが、天台宗においてはさらに織田信長による徹底的な弾圧により壊滅的な打撃を受けました。その天台宗・比叡山の僧、天海が江戸幕府のブレインとなり、ここに天台宗はみごとに復活したのでした。同時に、天皇家よりも武家である徳川幕府を中心に国家鎮護の霊的構造をつくったわけですから、天皇家にとっては複雑な想いがあったかもしれません。
天海は、円仁の足跡を強く意識していたと思われます。たんに密教の偉大なる僧というだけでなく、浄土教も将来して念仏系の宗派の原点ともいえる円仁ですから多くの僧や学者がその存在をよく知っていたことでしょう。同じ比叡山・天台宗の天海にはそれ以上の特別な思い入れがあり、円仁に関する情報も数多く持っていたとしてもなんらの不思議はありません。つまり、天海は円仁の足跡を利用して江戸の霊的構造をつくりあげた、という部分が非常に多かったように思われます。
円仁は下野の国(栃木県)の生まれ、九歳でその地で出家、十五歳で上京し比叡山にのぼり、のちに唐にも渡って多くの経典や曼荼羅などを持ち帰ります。仏法や経典のみならず悉曇(しったん)学・五行的な学問にも多大な足跡を残しますが、その後また生地の東国へも巡行します。前回に書いた天海がつくった江戸から日光・中禅寺湖へという道すじは、円仁の生地や足跡との関連が少なくないと思われます。
「東国」の定義は時代によってその意味する地域が微妙にちがうと言われますが、円仁の時代・平安時代の京都の中央政権にとって東国はまだまだ不安定な要素を数多くふくんだ気がかりな地域だったと思われます。それはたんに権力が十分に及ばないということだけではない、この地域には違う意味での魅力あるいは不気味さといったものがあると受け止められていたふしがあります。『アヅマの国』という言葉には不思議な語感がみられ、「東下り(あづまくだり)」は魅力的なテーマだったのでしょう。その詳細は次回以降に譲ります。
円仁(慈覚大師)が開山、あるいは中興の祖とされる寺社は関東、東北に五百以上あると言われる。すべてが事実とは言えないだろうが、その存在感の大きさは抜群だ。東京でも浅草寺、牛嶋神社などがよく知られるが、日本三大不動で有名な目黒不動=瀧泉寺も平安時代初期に円仁が開山したと伝える。湧き水(独鈷の滝)の池の背後に小高い丘、という地形で、そこここに八手の木がみえる。植えたものではない様子で、八手が生える丘陵地はかつて海岸沿いであった場合が多い。池と背後の木々の雰囲気は、〝岬の神宿る森〟の代表格である鹿島神宮(茨城県)をコンパクトにした感じでよく似ており、山地から平野部へと続く丘陵の先端という地形、またそこに湧き水があるという状況は上野不忍池とも共通する。鹿島神宮も上野不忍池もここ目黒不動もよく似た条件をそなえているのだ。またここは江戸時代初期の七福神のコース・山手七福神の起点にもなっており、本堂とはべつの場所に恵比寿尊がまつられている。天海の影響があったといえる。境内や裏の公園からは遺跡が発掘されており縄文時代の〝土版〟も発見されたという。
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2023年03月09日(木) 華林のブログ
江戸の〝霊的骨格〟 3 七福神と上野不忍池
結界やヒモロギ、四神相応、気脈 … などなど、いろいろな言葉や角度から都市や地域の〝霊的な〟構成が説明されるのをみますが、歴史をみればこのような〝霊的な〟思考が権力者たちの行動の大きな動機の一つであったことは間違いないようです。意外に思われる方も多いかもしれませんが、明治新政府自体の政策が典型的にそのようなものであったと言えます。「廃仏毀釈」は無神論になったのではなく、神道のなかのある一流を強く前面にだして国家の根本理念としたことを想いおこせば納得していただけるでしょう。明治新政府は江戸・東京の〝霊的な〟構造を一挙に転換し、金閣・銀閣・禅宗寺院群などの足利武家政権の残影が色濃い京都の街を平安神宮などの数少ない地点への効果的な投資によって見事に平安貴族の正統の古都、という印象に変えてしまいました。
さて、江戸時代初期に江戸の市中で意図的につくられた霊的な仕組みでは〝七福神〟が最右翼でしょう。
七福神は高僧・天海が広めたとされます。徳川家康から三代将軍家光までの帰依を受け、その霊的な側面での指南役としてあまりにも大きな存在であった天海は天台宗の僧でした。
七福神は恵比須・大黒天・弁才天・毘沙門天・福禄寿・寿老人・布袋和尚の七神とされるのがもっとも一般的です。それぞれは異なる来歴をもち、日本でまつられる時期もまちまちですが、〝七福神〟のまとまりとしてはじめて本格的にまつられたのは天海の事跡と思われます。また「舟(宝船)」に乗り、楽しくも呪術的な「七福神の歌」とともになんとも庶民的で親しみやすい形で広められたのは、従来の常識をくつがえす驚くべきマツリゴトの手法と言えそうです。
七福神には「五行」の哲学がはっきりとみられます。五行は宇宙も万物もすべてが木・火・土・金・水の五つの「気」によって支配されているという哲学ですが、その観点からみると、恵比寿さまは木、大黒天・弁才天・毘沙門天は水、福禄寿・寿老人は金、布袋和尚は火と土、とみごとに割り振ることができます。火と土を一つとするバランスも古来の感覚であり、水を三つとするのも大きな理由がありそうです。そして宝船は「木」を意味し、古来、「木」が顕界(この世)の一番の原動力とされるのと一致します。また、「ながきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」(長き世の遠の眠りの今目覚め波乗り舟の音の良きかな)という上からよんでも下からよんでも同じ歌がそえられ、年末には多くの人々がこの絵を買い求めたとされます。
歌の内容はなんとも不思議なものですが、「和歌即真言」「和歌陀羅尼観」などという古来の考え方、つまり和歌は強い「言霊」なのだという感覚は西行など山伏にも似た生活をした歌人たちに共通したものだったかもしれません。それは宮廷で技巧を凝らした歌を詠んだ人たちとは対極にあったもので、天海もまた、日光や中禅寺湖、男体山などの山岳を自らのよりどころとしており、山中で呪=言霊を唱え、和歌に対しても深い造詣があったと考えられます。
上野の寛永寺は江戸を守護する中心的な寺として建てられ、その一部、上野の丘陵(お山)の先端には湧水の池・不忍池があります。ここに琵琶湖竹生島から勧請したとされる弁天堂があり七福神の一、弁才天がまつられますが、丘陵の先端や湧水の池というのは古来の神まつりに非常によく登場するロケーションで、ここを起点とした七福神のコースは江戸最古のもの、つまり天海が最初に定めた七福神だったようです。
上野公園には遺跡が多数存在し、とくに縄文晩期以降のものではなんらかのマツリゴトがおこなわれていた可能性は高いと思われます。それは、ある意味では「ヤマト」の原像であり、神武東征以前のヤマトの文化・信仰は決して関西・近畿の地にとどまっていたわけではないと思われます。
そして、この上野の丘陵を北関東へとはるかにたどると栃木県日光市の深山、男体山の中腹、標高千二百メートルを超えるにもかかわらず美しくも広大な中禅寺湖があり、ここは天海が非常に大切にした場所で、湖畔には天海が中興の祖とされる中禅寺(立木観音)があります。そして中禅寺にはひっそりと、しかし厳かに並列した七福神がまつられています。往古より紀伊半島の熊野から北陸の白山へという道のりが修験の最終コースとされたように、奥日光の中禅寺と江戸の街は人の感覚では遠い道のりでも、霊的には瞬時にしてつながるケーブルのようなもの、なのでしょうか。
中禅寺から中禅寺湖をのぞむ。写真の右側には男体山がある。標高千二百メートルを超える場所にこのボリュームの湖があることは驚きだ。光や雲が神秘的な光景をつくりだすことも多い。栃木県日光市。
上野不忍池の弁天堂。背景にみえるのは上野のお山。丘陵の先端に湧水の不忍池があることがよくわかる。上野公園一帯は遠い昔から貴い場所とされてきただろう。
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2023年02月18日(土) 華林のブログ
江戸の〝霊的骨格〟2 将門塚と阿弥衆(あみしゅう)
将門塚にまつわる歴史では、時衆二祖とされる他阿真教(1237-1319)が注目されます。鎌倉時代、一遍上人の志を継いで時衆を発展させた人ですが、中世の時衆とはすなわち阿弥衆のことで、他阿真教の百五十年ほどあとには何人かの阿弥衆が足利義政の東山文化のにない手となったことはよく知られます。日本の床飾りの文化、生け花や茶の湯、絵画(お軸)や器などは東山文化にはじまる、とされますが、その東山文化のにない手となった阿弥衆はとくに「同朋衆」ともよばれ、その同朋衆の実体については意外と掘り下げた研究が少ないようです。そんななかで近年は剃髪・帯刀をした三人がえがかれた「足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻」が発見され同朋衆の具体的な絵として話題になりました。
時衆=阿弥衆はナームアミダブツを唱えて踊った、ということがもっともよく知られるところでしょう、それは今日の盆踊りの原点と言われますが、長野県佐久市跡部には当時の踊念仏が今でも残っていて国の重要無形民俗文化財に指定されています。その阿弥衆の頂点にたった代々の遊行上人は一ヵ所に定住しないという厳しい掟があったようです。
時衆は○阿弥(○阿とも)というふうに阿弥の名前をつけるのがならわしで、能で有名な世阿弥もまた時衆と考えるべきでしょう。これには異論もあるようですが時衆をどう定義するかの問題でもあり、世阿弥が佐渡で書いた金島書には時衆ならではの文化がみられます。「申す」ことを基本とした猿楽を夢幻能という高い境地に引き上げ、好んでテーマとしたのも「はごろも」や数々の脇能など純粋芸術としての高い境地であったことは、分野こそちがえのちの東山文化の同朋衆に強く共通するものがあります。
宗教教団としての「時宗」が確定するのは藤沢に本山が定着するなどした江戸時代以降とする研究者は多く、ここでは今日的な意味での宗教としての時宗を問題とするのではなく、中世までの不思議な文化を持っていた時衆=阿弥衆に着目するものです。
さて、時衆の祖・一遍のあとをついだ形の他阿真教は北陸や関東などに広く遊行したようです。そのなかにこの将門塚の地があります。
将門塚の地にあった日輪寺はもとは天台宗だったとされますが、他阿真教は将門のタタリに苦しむ人々のために祈とうし将門に「蓮阿弥陀仏」の法号(戒名)を贈ってこれを鎮めた、という歴史が残されます。以来、日輪寺は時衆の道場となり、のちに移転して将門塚の鬼門・北東の方角の浅草駅の近くにあります。ここには他阿真教の真筆から採ったといわれる「蓮阿弥陀仏」の石塔婆が今でもあり、将門塚にある今日の碑もこの文字から採られたということのようです。
他阿真教が将門のタタリを鎮めた「手段」はナームアミダブツという念仏・称名によったと考えるのが自然です。世阿弥も「申す」ことの芸術・能を大成し、いずれも音声を発すること、言いかえれば「言霊」への志向が強くあります。両者はまったく違うことのように感じる方も多いと思いますが、日本において天台密教でサンスクリット語の発音が研究され同じ人の手で浄土教も将来されてそこから時衆をふくむ念仏系の宗派や文化が生まれた過程や、江戸の国学者たちによってヤマト言葉の研究がなされた結果は、「音」の観点からみると不思議な一致をみせ、そこからは従来とはちがう「言霊」への理解が生まれます。このテーマはまた違う機会に譲ろうと思いますが…。
将門塚の地には石室?などの遺跡があったという記述も資料類にはみられます。開発最優先で古いものをよしとしない時代が続いたことは周知のとおりでなかなか真実は見えてきません。しかし大いにありうる話だと思います。古くからの「聖地」にそれぞれの時代にあった形の信仰が重ねられるのはよくあることで、そういう意味では、ここが古くからの聖地であったならそこに将門の伝承を結び付けて習合させるのはなんとも阿弥衆らしいやり方と思えます。私見でエビデンスもありませんが、古来の書のなかの一行に過ぎないような記述を面白おかしく一寸法師や浦島太郎などの物語に仕立て上げたのは中世の阿弥衆の仕業に違いない、そう思うのです、世阿弥が能「羽衣」をつくったように。
(この文は日本女性新聞にも掲載・連載されています)
将門塚の碑に彫られる「蓮阿弥陀仏」の字は日輪寺に今でもある遊行二祖・他阿真教の真筆とされる石塔婆の字から採られたものという。碑の中央は南無阿弥陀仏、右上は平将門、右下が蓮阿弥陀仏。左上の徳治二年は揮ごうあるいは石塔婆に彫られた年号。
将門塚のそばには皇居のお堀があり、かつては水質が問題にされたこともあったが今は浄化設備でかなり改善しているという。昔のように川の水を引くことへの要望もあるようだが都市の風格を考えればそれが正解かもしれない。美しい水に石垣、という光景には高い価値がある。
2023年01月31日(火) 華林のブログ
江戸の〝霊的骨格〟 その1
ここ数年、月の暦=陰暦1月7日「人日」の節句に東京を歩く、という講座をあるカルチャーサロンの主催で開催していただいています。
今年は九段の筑土神社、大手町の将門塚、外神田の神田明神(神田神社)、という千代田区の3つの場所を電車でめぐり、武道館や靖国神社、皇居のお堀などを横目に見ながら、好天に化かされた気分でかつての江戸の中心地を体感しました。
出かけるまえに簡単に日本の「御霊信仰」やその深層にある古くからの信仰の流れなどについて説明をさせていただき、次に現場に足を運ぶという順序は「講座」としては分かりやすいものだったかもしれません。しゃべりながら自分の認識を整理してゆくという私の悪い癖も健在です。
さて、筑土(つくど)神社、将門塚(しょうもんづか・まさかどづか=首塚などとも)、神田明神の3者はもとは同じ現在の将門塚の地にあったのですが、筑土神社と神田神社はそれぞれ現在の地に移ったという歴史があるようです。つまり将門塚だけはもともとこの地にあり続けているのです。そこには紆余曲折の歴史があり、ご興味のある方はネットから多くの情報を得ることができます。
将門塚は、平安時代に関東で、庶民のために中央政権に反旗を翻した平将門が結局は現在の茨城県で非業の死を遂げたという事件に端を発します。その首級は都へ送られて晒されても目を見ひらいてしゃべり、ついには空を飛んでこの江戸(武蔵の国)の芝崎村、現在の将門塚の地に落ちた、という伝説です。そこで激しいたたりがおこり、高僧がこれを祀って鎮めたナドナド … というのがその概略ですが、さらにこの祟りのような現象は戦後まで折々に続き、それが高層ビルの傍らでずっと手厚く祀られる、という今の姿につながっているようです。
このような信仰の形を御霊信仰(ごりょうしんこう)とよびますが、ほかによく知られるのは天神様=菅原道真です。今回めぐった筑土神社には平将門のほかに菅原道真も併せて祀られていますが、いってみればよく似た系統の信仰で、少し前の時代に亡くなった菅原道真が平将門の伝承で夢中に登場するのは象徴的な部分ともいえます。平将門も菅原道真も武家にあつく信仰されました。筑土神社にもう一柱祀られるニニギノミコトは明治維新のさいに新政府によって配された神と考えられ、全国に同様のケースは多く明治政府の意図が感じられます。
御霊信仰の神は庶民に人気の神々が多いようです。菅原道真=天神様は平安時代に都に大きな災いをもたらしたとされますが、今では学問の神様として一番人気といってよいでしょう。その菅原道真が人気になる前は、柿本人麻呂も大きな人気を博していました。中世のころです。和歌の会では人麻呂の軸が飾られ、だんだん人麻呂に代わって菅原道真の軸が飾られるようになっていったようです。この柿本人麻呂も御霊信仰であるという説は強く、道真とはとてもよく似た性格があります。つまり、学問、なかでも和歌・詩に秀でたこと、古代の専横とされることの多い藤原一族と対極にあった、あるいはそう推測されること、などなどです。人麻呂は江戸の街でも火伏せの神としての人気も高かったようです。平将門にも藤原一族を中心とした中央政権に対峙する正義の味方、という性格は強く、御霊信仰にはたんなる「たたり神」ではない、何らかの強い主張をかいま見ることができます。さらに法隆寺の聖霊院、京都・八坂神社の祇園御霊会(祇園祭)などとたどれば、隠されてきた史実やマツリゴトの核心にたどりつくことでしょう。
御霊信仰は、いってみれば庶民的なストーリー、庶民に分かりやすく教える手段ともいえます。そのうらには、もっと深い、切実な〝霊的な事情〟が隠されています。次回はそのあたりを少し見てゆきたいと思います。
(樹心院 華林)
大手町、お堀のすぐそば、三井物産のビルの一部であるかのように存在している「将門塚」。30年くらい前に始めてここを訪れたが、ひょっとしたら現在のほうが参拝者は多いのかもしれない。近年は数度ここを訪れたが、その都度、同じような光景をみかけた、参詣者は切れ目なく、しかしまるで時間を決められたかのように順番に訪れる。混みすぎることもなく、途絶えることもない … 。例外なく熱心にお詣りされる姿も印象的だ。
ご参加いただいた方々と皇居かいわいを歩く筆者。カラーフィールドさん提供。
2022年08月06日(土) 華林のブログ
暑き日の みづべ(水辺)に風も 身をひそめ しらさぎと亀 游び(あそび)をりぬと
2022年06月22日(水) 華林のブログ
かは(川)の端(は)に ひとつふたつと ひらきけり 清き真名井と 美(うま)し真名井と
伊勢、五十鈴川にて 陰暦5月23日
ここが「二見」の由来か …
2022年06月17日(金) 華林のブログ
五角形 … 形の話 その2
形の話の2回め、今回は五角形です。
五角形といえば正五角形を思い浮かべますが、五芒星もまた伝統文化では五角形の一種と考えればいいでしょう。
五芒星はヒトデの形です。名前に「星」が付くように、星を表現するときに古くから五芒星、または六芒星で表現します。五芒星は、子供のころなどには一筆書きで描ける形としておなじみだったかもしれません。
桜、梅、椿など花びらが五枚あるいは五つに裂けている花は自然界ではいちばん多いと言われ、五角形は花の形として模様や家紋など優美にさまざまな文化にとりいれられてきました。アメリカの国防総省=正五角形型は「ペンタゴン」の愛称で知られています。幕末につくられた函館の五稜郭=五芒星型もよく知られます。
五角形は強い吉祥の形としてとらえられています。数字としての三、五は伝統文化では頻出するもので、「3」は三極=天地人を表現し、「五」は五行(または五方など)=木火土金水を意味します。形になったときにも五角形は五行を隠喩するものとなり、五行は循環するのが本意ですから五角形はまさに五行の循環を示す形ともなります。
同じ五角形のなかでも、平安時代の陰陽師の名前を冠した「晴明桔梗」はややちがうニュアンスを持っています。五芒星の形でありながら、部分的に線と線の間に隙間をつくっており、一筆書きで描く五芒星の筆順を示唆するものとなっています。
ふつうの正五角形は五行が循環する形となりますが、つまり、普通の正五角形が五行の「相生」関係(次々と生まれてゆく関係)を意味するならば、五芒星は五行の「相剋」関係(剋する関係)を意味します。晴明桔梗はまさにこの順序を示した形となっており、不気味な形であるとか、これを紋とした明智光秀のように波乱に富んだ結末を呼ぶ形であるといわれることがあるゆえんです。もちろん〝悪い〟ということではなく、激しさや攻撃性、相反する力の両立、などといったことを意図するということができます。
あなたがこの形をみてなにか胸騒ぎを感じるとすれば、ひょっとしたらそれはかなり鋭い感性かもしれません。
五芒星(ごぼうせい)のなかでも特殊な「晴明桔梗(せいめいききょう)」。五芒星の形だが部分的に隙間があり、一筆書きの五芒星を示唆している。
五行の相生、相剋の図。黒色の矢印→は五行の循環=相生をあらわし、ふつうの五角形となる。赤色の矢印→は五行の相剋をあらわし、矢印の方向性を加味すれば五芒星のなかでも晴明桔梗と同じ意味合いとなる。
2022年06月12日(日) 華林のブログ
はす若葉 風ここちよく 弁天の 池で言あげき 亀聞きをりぬ
2022年05月30日(月) 華林のブログ
形の話 その1
前回は「数」についてみました。数は伝統文化においてはたいへん重要な意味を持ちます。同時に現代の先端の科学でも数・数式がリードしていると言ってよく、その一致には興味ぶかいものがあります。
今回のテーマは「形」です。伝統文化に登場する「形」も「数」に対応しています。三角形、四角形、五角形、六角形、五芒星、六芒星など名前に数字を冠した「形」です。「ヒサゴ」は七を隠し持っています。
まず「天円地方」の哲学をとりあげます。天は円形、地は方形=四角形であるという哲学です。日の丸の国旗はこの哲学によく合致しています。同時に、天の円い形には天の色とされる「赤」が配され、地の四角には地の色とされる「白」が配されています。
形の観点からは、植物は茎などの形がおおむね丸いことから「天=陽の性質」が強い、としているものが江戸の生け花理論にはあります。器とは「陰」の形なので、【器=地=陰】に【花=天=陽】を挿して陰陽を和合させるということです。陰陽はそれぞれが単独にあるのではなく、両者が交わるということをアジアの伝統の哲学は何より大切にします。
三角形は重要な場面に多出する形です。まず、「火」の形を三角形で表現します。具体的にも火は三角形にみえる場合が多いですが、むしろ火が持つ「気」や目にみえないミクロの世界での火エネルギーのあり様を三角形で表現していると考えてよいでしょう。ちょっと難しいですが、火を意味する三角形は、一筆書きをするなら左回転の三角形となります。基本的には正三角形を思い浮かべるのがよいでしょう。
四角形は「天円地方」の「方」でもあります。正四角形=正方形を思い浮かべると理解しやすいでしょう。「方」の字では「方角」の意味がいちばん古いとされ、「方角・方向性を表す形」として四角形は登場します。
江戸の花道家・国学者の書には『地は南北に伸びるヒモを中心軸として宙に吊られ東西方向にぐるぐる回転しているようなもの』と記されており、地球の自転のあり様をうまく表現していますが、この南北、東西という二つの対照的な「方向性」を「方形」で表現しています。「地」が方形であるというのは目にみえる形のことではなく、動きの方向性を表現する形なのです。
江戸の花道家、歌人、国学者でもあった関本理恩の書中の「天円の象(天円地方合形の図)」「地方の象」の図。下図では北・南は「天・地」、東・西は「人」とされている。これは「天地人」の隠された意味のひとつ。また東西南北と中央に「木火土金水」を配し、五行の哲学にもなっている。下の方形の図の四方の角ばった部分が矢印のように「方向性」を示す。極、無極といった考え方もここから生まれ、北極・南極という言葉もこれに由来する。
2022年05月18日(水) 華林のブログ
数の話 その2
アジアの伝統文化においてもっとも重要な書の一つである「易(周易)」には、よく知られる「天一・地二、天三・地四、天五・地六、天七・地八、天九・地十」のくだりがあります。天の各数を足せば二五、地の各数を足せば三十、天地の総数は五五です。
天は「陽」、地は「陰」なので、ここに天数=奇数=陽数字、地数=偶数=陰数字への強い意識があります。伝統文化や作法、まつりごとなどでは奇数・偶数の区別を大切にする場面が多くみられますが、そのひとつの原点が「易」のこのくだりと考えてよさそうです。
これは、前回の【数と循環】では、いってみれば二進法の性格をもちます。日常や伝統文化の多くの場面で奇数=陽数字が尊ばれますが、これはたんに「陽が貴い」とばかりも受け取れないようです。その詳細はまた別の機会に考えてみたいと思います。
易には、このような数の法則で鬼神(鬼はこの時代では祖霊を意味する)が働く、と書かれ、つまり目に見えない「気の世界」の法則であるとのべています。目に見えない気の法則がじつは人間の美意識や人生に大きな影響を与えている、というのです。また前回の十進法・十二進法・七進法、今回の二進法のほかにも、九進法などは目立たないながらも不気味な存在感をみせています。
さて、進法の話はひとまずおいて、伝統文化の核心の部分では「ゼロ=〇」が重要な意味を持ちます。
いまでは誰でも抵抗なく受け入れる〇という数字は、かつてはなかなか理解されないものでした。ここで重要なのは、「無」と「ゼロ」が違うものだということです。ゼロを意味する漢字「零」も「無」とはちがい、「零」はかすかに存在していることを示すものです。
ゼロはインドで〝発見〟された数字とされます。まったくの無ではなく、中が空であるもの、あるいは「一」の前段階の出発点、といったニュアンスです。諸説はあるようですが、初出はかなり古い時代と思われます。
アラビア数字(陽数字)ももとはインド発祥とされていますが、アラビア数字の0の字が、中が空である姿、象形になっています。この「空」が、よく知られる般若心経の「色即是空、空即是色」に登場する「空」と同じと考えていいでしょう。
ちがう言い方をすれば、同じインド哲学の系譜上にある「阿吽=あうん」の「阿」がはじまり、つまり「一」を意味するとすれば、そのまえにある原初状態を「〇」と考えることができます。また、陰陽五行の哲学では、最初に「太極」があり、そこから「陽」と「陰」がうまれ、さらに陽と陰の組み合わせで「五行(木火土金水)」が生まれた、と説きますが、この太極を〇(ゼロ)と同じもの、と解釈することも可能です。現代の宇宙論では、宇宙は百三十八億年前にほんの小さな「点」から始まって急速に膨張した、などとされていますが、この捉えどころのない始まりの部分を「ゼロ」に重ねてみるのもイメージを得るのにはよさそうです。
江戸の花道家、歌人、国学者でもあった関本理恩(古流四代家元)が幕末から明治初頭にかけて記した『古流生花太極図説』にも「天数、地数」にかんする記述がある。写真は「地数の事」の小見出しがつけられたページ。
2022年05月01日(日) 華林のブログ
数の話 その1
生け花や伝統文化では『数』が重要な位置を占めます。たとえば伝統的な生け花では「本数」は一種類ごとに奇数とされることが多いようです。ただし「2」だけは奇数あつかいもする、という不思議な考え方もあります。伝統文化につきものの「節句」は、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日と奇数が重なる日です。ほかにも数にまつわる話は少なくありません。
そこで、それらの個別の事例ではなく数にかんする基本的な古来の考え方も見てゆきたいと思います。
アジア古来の哲学では根底に『循環する』つまり『渦』の思想があります。言いかえればすべてが『らせん状に進む』ということです。それはアジアにかぎったことではありません。そして「数」にも循環や渦、あるいはらせん状に進む、という考え方は反映されます。
十二支(ジュウニシ)=子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は私たちの生活ではおなじみです。たとえば子年が過ぎて十二年たつとまた子年にもどります。十二で一周期なのでこれは「十二進法」と呼べます。ここでは子年生まれ、辰年生まれ…などどの干支の年に生まれたかが問題となります。これが「循環する」ということです。
また甲乙丙丁戊…の十干(ジッカン)は十でワンセットなので「十進法」で循環してゆきます。かつては、この十干と十二支を組み合わせる方法で年を表現してきました。六十通りができるので六十年でひと回り、実際に生活するうえでは不便は感じない周期です。甲子園球場など年の干支で命名された例は最近でもみられます。
十干十二支と呼ぶように、どちらかと言えば十干が主なもので十二支が補助的なもの、という考え方がここにはみられます。「干・カン」は「幹・カン」と同意であり、「支・シ」は「枝・シ」と同意です。つまり幹と枝の関係です。
もっと身近なものに曜日があります。中東、西洋文明に由来するこの週七日制、七曜日は太陽・月・火星…と七つの天体の動きにもとづくもので、そういう点ではやはり太陽・月・木星(歳星)・火星…にすべてを対応させていくアジア古来の陰陽五行の哲学にもつうじるところがあります。これは「七進法」です。今日でもほとんどすべての人の生活のリズムはこの曜日による七進法によって左右されています。洋の東西を問わず神話でも天地創造の7日間・神世七代など、また人が亡くなると七日周期でお祀りをするなど、七は目にみえない世界の一つの単位となっています。
つまり、数字にはものの総量、総額を示すという側面と、ここまでみてきたようになんらかの周期で循環してゆくときの「現在地」を示す、という二つの側面があることが分かります。そしてその「循環のなかの現在地」には何らかの性格付けがされます。曜日では多くの会社では土日は休日とか、十干の「甲」はものの始まりの地点、十二支の午は激しい火の様相を呈す、といった具合です。そして特定の周期で循環するとき、その周期が十であるのか、十二であるのか、七であるのか、によって生活や文化が大きく左右されるのです。(次回につづく)
アジア古来の哲学では「循環する」ということが根底にあるので、季節や月のめぐり、方角などすべて「円図」で表現することができる。季節も月もぐるぐる回転しながらすすんでゆく。十二支が歴史上もっとも早く出現するのが「月」にあてはめる方法で、 一年は十二か月なので合理的だが、不思議なことにこのいちばん合理的な月への十二支の配当が歴史的にみて最初に忘れられ、年・日への配当が今日ではよく知られている。(図/華林制作、禁無断転載)
2021年12月15日(水) 華林のブログ
隅田川の七福神と海の文化
東京・隅田川の下流は東京スカイツリーができて近代的な様相を呈しています。なぜかニューヨークのマンハッタンを想い起こさせます。
東京湾に潮が満ちる時間などには、この辺りには海水が入ってくるそうです。つまり海魚も入ってくるわけで、どうりでカモメ(ウミネコ?)が多いわけです。
ここには「海の気配」があるのです。考えてみれば、ここだけにとどまらず東京23区のかなりの部分にまで「海の気配」はおよんでいそうです。「江戸」という名前の「戸」は戸=入口であると同時に「処(と)」であったかもしれません。難波江つまり大阪湾から古いアスカの文化圏が生まれたのに似て、東京の江、つまり東京湾が江戸・東京の文化圏を形成する原動力となった、深層の部分ではそんなふうに考えることもできそうです。
隅田川の東側、墨田区に「隅田川七福神めぐり」のコースがあります。こちらはスカイツリーとは打って変わって情緒ある地域。古い町並みに新しい建築物もよくマッチしていて、樹々や小公園もあり、ほっと息が付ける素敵な街です。近くには料亭も多く夕刻には芸者衆の姿をみることもできるのでしょうか。歴史的にみると激しい変遷もあったようです。
七福神めぐりができるのは自然と文化が調和した地域が多いようですが、ここも例外ではありません。そして、とくに印象的なのが「海」に関係する文化です。
七福神が広く江戸市中に定着したのは宝船に乗る絵です。ときに七福神が省略されて「船」だけで表現されたりします。七福神につきものの哥も『波のり舟の音のよきかな』でしめくくられ、波=海が隠れた主役と考えることができます。
いっぽうで、このエリアには強いスサノヲ信仰もみられます。長文になるので詳細は略しますが、それらは同様に「海」への信仰であり、五行でいえば「木」、また「風神」、ひいては「竜宮の乙姫」と置きかえることもできます。
ニューヨークのマンハッタンはハドソン川の中州、ここにも海水が入ってくるそうです。アメリカの東海岸と日本の東海岸の河口近くの大都市、やはり似ているのですね。東京湾にそそぐ水もきれいになってきて、「海の力」も増すかもしれません。
写真は隅田川をめぐる船上からみたスカイツリーと近代的なビル群。
2021年12月14日(火) 華林のブログ
椿一色の彩流華
11月に金沢の華林苑で開催された「華林の芸術展」から椿一色の彩流華を2作。
はじめてみる方は、一種類の枝葉で生けられる彩流華と一般的な生け花とのあまりの違いの大きさに驚かれることが多いようです。
上の写真は「剱の華」と呼んでいます。形が剣を立てた姿に似ているからです。陰陽五行の「金」を意味しています。
葉で形成される陰陽の回転を組み合わせています。下方が左回転に配置されたいくらかの枝、中に別に2本を配置し、それを囲むように右回転で上昇してゆく数枝を配置しています。上昇のぐあいが揺らぐ感じにします。
暗い場所での写真なので粗い画像になっています。上左右に軸、お隣りに違う華を生けています。
下の写真は「風の華」。五行でいえば「木」を表現します。
ぐるぐる回る、台風の形です。
「剱の華」と「風の華」で雷神・風神と同じ意味となります。五行はさまざまなモノに変換されますから、色だったり雷・風などだったり、方位だったりします。彩流華では、それを枝の葉の「気の動き」で表現しています。
同展の動画と作品集も後日ホームぺージにアップする予定です。
2021年10月17日(日) 華林のブログ
羽車と羽衣
三保の松原、羽衣伝説の地にあるのが羽車神社、小さな社で海ぎわなので昔はきっと何度も流されては建て直しているのでしょう。
〝車〟は古来の強い性格の文化のひとつ。その根底には、渦=回転体こそ高貴な神の姿、という思想があります。その回転体の象徴となったのが車輪の形。
三保半島の三保の松原(静岡県)は富士山が見える景勝地としてよく知られますが、富士信仰の中心地のひとつとしても知られます。強い信仰の山ではその山が見える場所や山の連なりのさまざまな場所に信仰の「場」がみられますが、山系が海へ突き出す場所すなわち岬はなかでも重要な場所とされてきました。言うまでもなく富士山はじつに広範囲に及ぶ信仰や文化をはぐくんできましたが、三保の松原が富士山と一体となって世界遺産に登録されたうらには日本の文化への深い理解がみられます。
さて、羽衣伝説は日本の数か所にあるようで、それらは〝水〟との深いかかわりがあります。ここでは三保の海ですが、古くは近くに清水をたたえた池があったとも言われます。さすがに古来の哲学や説話に長けた世阿弥、この地の古い羽衣伝説を世阿弥らしい純粋で高雅な幽玄の能に仕立て上げて伝説の真意をよく表現しています。
さて、羽衣と羽車、よく似た名前ですが、羽車が回転する飛翔体を意味すれば、羽衣はより具体的に、そのやや複雑な回転のしかたを美しく表現していると言えます。目にみえない高貴なエネルギーの姿を、より具体的、文学的な言葉にしたのが〝羽衣〟といえるでしょう。いってみればそれは、〝ヒモロギ〟のなかでもとくに高貴な形でもあるのです。![]()
天女が羽衣をかけたという伝説の羽衣の松。ただし初代とされるものはもうなくてこれは二代目?とされる。
滋賀県余呉湖の羽衣伝説のヤナギも同様の枝が広がる姿でとてもヤナギとは思えないものだったが、残念ながら近年の台風で折れてしまった。記憶に残るその姿は、三保の羽衣の松とよく似ている。2021年8月撮影。
2021年08月17日(火) 華林のブログ
太子信仰
聖徳太子の信仰は不思議な広がりをみせます。
弘法大師・空海が、伝教大師・最澄が、また日蓮、親鸞、一遍上人が … 枚挙にいとまがないほどの高僧たちが深く敬った聖徳太子は、日本にはじめて仏教を取り入れた人であり、日本の仏教の根本経典といえる法華経を取り入れた人です。
鎌倉時代の新仏教の隆盛はその時代の民衆、つまり下から生じるエネルギーの凄さを思わせますが、それはすなわち太子信仰の隆盛にもつながりました。比叡山から野に下って超人的な活躍をした法然、親鸞、日蓮などなどは、太子信仰を広めることにも一役かうという結果になったのです。
このときさかんにつくられたといわれるのが「太子二歳像」や「孝養太子像=十六歳の太子像」です。髭を生やしたかつてのお札のイメージがあまりに強くて戸惑う人も多いでしょうが、太子信仰ではとくに二歳、十六歳の像が中心となっています。
その背景には平安中期に成立したと言われる「聖徳太子伝暦」がありますが、そこで〝二歳〟などの年齢が強調されるようになった根底には、なんらかのアジア古来の哲学があると考えることができそうです。つまり、アジア古来の哲学・信仰と習合して太子信仰のますますの隆盛をみることになったと考えられるのです。
さて、〝二歳〟の謎解きには今回は挑戦しないことにして、いっぽうでは聖徳太子は実在しなかった、という説も根強くあります。これにはこの時代の歴史に特有の事情があります。つまり、日本の政治・文化が激変する直前の時代なのです。だから古事記・日本書紀のこの時代にかんする記述には常に疑問が呈され、江戸時代の後半までは記紀そのものの存在感はじつに希薄だったことが知られています。
さらに、聖徳太子には〝御霊信仰〟の特徴が数多くみられると言われます。御霊信仰でよく知られるのは奸計によって左遷され憤死した菅原道真=天神信仰ですが、『聖徳』という名前も法隆寺の建築形式も、また観音信仰と一体化するという点でも太子信仰が御霊信仰の特性をそなえていると指摘されるのは自然なことかもしれません。
聖徳太子のお手伝いをしたことで知られるのは秦一族ですが、秦氏は先の項目でとり上げた徐福の子孫・末裔といわれます。徐福と秦氏は一説では「景教」とよばれたキリスト教、というより古代ユダヤ教を持ち込んだとも言われ、『十七条の憲法』というようなまとめ方の発想は釈迦よりもモーゼの『十戒』を髣髴とさせるかもしれません。いずれも「愛」をひとつの基本理念とした宗教ですが、かつて『日ユ同祖論』がうまれた背景にはこんなこともあるのかもしれません。また十七条の憲法では「和を以て貴しとなす」の文言が有名ですが、逆に読めば、激変する時代の直前にかなり激しい政争があったと考えることも可能です。「和」を強調する正義感と勇気、それを煙たい存在と考えたグループの存在、またこれに続く時代の藤原一族の専横が天神信仰を生んだことを考えると、一つの構図が浮かび上がってきます。いずれにせよ、のちに聖徳太子と呼ばれるようになる人物は実在したと考えるべきでしょう。それがほんとうは誰だったのかには諸説があり、また記紀が記すその周辺の歴史にはかなり激しい改ざんが行われている可能性は常に頭に入れておかなければならないでしょう。
聖徳太子が実在したか否かと、太子信仰の重要性はべつのことです。とくに日本においては信仰はさまざまに習合しながら哲学や真理、愛、正義感を説くものになってきました。今日の政治・社会のあり方をみれば、愛や正義感、哲学が著しく欠如していると感じる人は多いのではないでしょうか。お札の顔から聖徳太子が消えたのと、それは軌を一にしているかもしれません。
写真は「聖徳太子二歳像」。石川県宝達志水町小川の照覚寺。弘法大師(空海)作と伝えられる。空海が唐から帰朝した地では現在の長崎県五島市説などが知られるが実際ははっきりしない。ここでは能登半島の珠洲市、三崎に漂着したとされる。このお寺は浄土真宗で空海は真言宗、太子信仰らしい側面がみられる。石川県、金沢市には数多くの太子像がある。
下の小さい写真は同寺の聖徳太子十六歳の画像、絹本。
太子像には住職のお嬢さん、広橋理悠さんが松と椿を生けてくださいました。
写真はクリック、タップすれば拡大します。
2021年08月17日(火) 華林のブログ
金鈴の音
森のなかのヒグラシはあの世の音
宝達のモーゼの丘に山蝉の 声声声と 金鈴の天降る
華林
… ほうだつの モーゼの をかに やませみの こゑこゑこゑと きんすずのあもる
墓標の足もとの置物と「ありがとうございます」がなんとも愛らしい。
ここには〝モーゼの墓〟があると言い伝えられる。
石川県宝達志水町にて。 2021年7月
2021年08月16日(月) 華林のブログ
言霊の国に生まれて 陰暦七月八日
言霊の国に生まれて…三
はちすの池 雨たたきつけ 花 花と あそばす女神 きそ(昨日)をことほく
… 蓮の池 雨叩きつけ はな はな と 游ばすめがみ きそを言祝ぐ
山梨県富士吉田市、明見湖にて 2021年8月15日 華林
2021年07月19日(月) 華林のブログ
日本三霊山
富士山、白山、立山は日本三霊山とよばれます。東海地方あたりの修験者(山伏)などがよく口にした言葉かと思われます。
富士山のふもと、駿府にあった徳川家康は白山信仰にも篤かったと言われますが、東海地方は戦国大名を輩出した場所で、白山の牛王印(お札のようなもの)の裏に起請文を書いた大名は家康にかぎらず何人も知られているようです。「白山神」は、戦乱の世にあって大名たちにはウソ偽りの許されない重い存在だったのでしょう。
さて、富士信仰の神社はおもに浅間神社ですが、なぜ『浅間(せんげん)神社』という名前なのかは謎とされます。富士山は言うまでもなく広く深い信仰の対象でした。にもかかわらず、浅間神社の名前の由来がはっきりしないのはなんとも不思議な話です。
いっぽう、石川県白山市鶴来町にある白山本宮では、明治初頭の神仏分離の政策のなかでいきなりシラヤマヒメ神社とされ、その聞きなれないご神号に戸惑う様子が白山史料集「祭神問答」にもみられます。シラヤマヒメとまつられる例は隣県の若狭小浜(福井県)にも複数あったことが近年の発掘調査などで知られます。日本では漢字は古来「あて字」で、さまざまな漢字で『シラヤマヒメ』と記されまつられるケースが九州にいたるまで広範囲にわたっています。
立山は古くはタチヤマとよばれご祭神はイザナギ神、アメノタチカラヲ神また地元ではタチヲ天神です。前述のように日本では漢字は古来「あて字」で、ここでは「タチ」という音が印象的です。
三霊山にかぎらず、近年では自然の行き過ぎた開発が痛々しく感じられることが多々あり、最近の熱海の土石流にいたるまで数多くの厳しい結果を招いています。目先の経済効果だけで三霊山を売り物にするのではなく、それらの自然が大きな枠組みのなかで人々をはぐくむ深い知恵に言及する政治家、経済人が見あたらないことにも、大きな危惧を覚えます。
立山からみた雲海のなかの白山(奥の山)
2019年10月
2021年06月27日(日) 華林のブログ
言霊の国に生まれて
言霊の国に生まれて…二
蓮の池に 言の葉降りて 水(み)の光
… はすのいけに ことのはふりて みのひかり
美と水、発音(=み)が同じならその語の根源的な意味は同じと言われる。
山梨県富士吉田市、明見湖にて 2021年6月 華林
言霊の国に生まれて…一
蓮の池に 言の葉降りて 美(み)の泪(なみだ)
… はすのいけに ことのはふりて みのなみだ
美の神 は しらやまひめ とも呼ばれる。
福井県、若狭国分寺跡の池にて 1992年夏 感謝します┅ 華林
2021年06月18日(金) 華林のブログ
徐福伝説 その2 (6月13-14日)
富士山のふもと、富士吉田市は標高800メートル前後、車で入るとあまりその高さを実感しませんが、かなりの高原都市です。ここにも徐福伝説が色濃く残っています。
かつては都留(つる)郡、現在は富士吉田市に属する「明見町」は北斎の富嶽百景では「阿須見村」と記され、読み方はいずれも〝アスミ〟で、この発音が古くから続いていたことが窺われます。また同地は古くはアソダニ(アソダン?=阿曽谷)とよばれ、浅間神社の『浅間』ももとは〝アソヤマ〟(富士山のこと、神社誌などに記載がある)が〝アサマ〟に縮音され、浅間の字があてられるようになったと指摘する向きもあり、どうもこのあたりが真実に近いように思われます。アスとアソ、日本語特有の音韻の転換とも考えられそうです。
さて、明見町にある明見湖は小さな湖ですが、蓮の花で有名です。ここにも徐福は祀られます。「徐福雨乞地蔵」と祀られ、さまざまに習合しながら新たな文化となっていく日本ならではの在り方がここでも顕著です。この小さな祠のご本尊とおぼしき像の前に、前立のように舟に乗った徐福像がありますが、徐福伝説のままに童男などをしたがえ、いかにも古代中国らしく船の上に瓦屋根を頂いた家があるのが印象的です。そして、海の波もしっかりと彫られ、どこか七福神を思わせます。
そしてその近くに、やはり徐福伝説とのかかわりが深い北東本宮小室浅間神社の旧社がひっそりと佇みます。
下の前の項の和歌と写真はここでのもの。
薄暮の富士山、富士吉田市はまさに富士山の一部。
写真はクリック、タップすれば拡大します。
2021年06月15日(火) 華林のブログ
陰暦五月五日 端午の節句 (6月14日)
古宮で
艮の 阿須見の里の 古宮に まします祠 守られし 千歳を越えて 縁ある 人のはかりて 守られし 幾万代の 古の 天祖の 鎮まりし 岐の大神に よごと挙げ 明けまくを祝く 端午の節会
(うしとらの あすみのさとの ふるみやに ましますほこら まもられし ちとせをこえて えにしある ひとのはかりて まもられし いくよろづよの いにしへの あまつみおやの しづまりし ぎのおほかみに よごとあげ あけまくをほく たんごのせちゑ)
華林
明見に祀られる徐福の神様に (… その前には舟に乗った徐福像が置かれる)
長き世の 遠の眠りの 今目覚め 波のり舟の 音のよきかな
(七福神の哥)
… 富士山麓、山梨県富士吉田市にて
2021年05月31日(月) 華林のブログ
徐福伝説 その1
全国各地にある徐福伝説には不思議な存在感があります。
徐福は〝方士〟とされます。空海や天海は密教僧ですが、『方』つまり陰陽五行の知識にも長けており、共通点が多そうにみえます。
そして徐福の足跡が伝えられる地には、まるで暗号のようなキーワードがみられます。
紀伊半島・蓬莱山は熊野川の河口ちかくにあり、昔は岬とよぶべき場所であったと思われます。信仰の山を流れる川の河口にある小高い場所・岬は古くから神聖視されますが、ここはその典型でしょう。熊野三山ほどには知られませんが、ここの阿須賀(あすか)神社もまた、古来、強い信仰の対象です。また阿須賀=アスカは〝飛鳥・明日香〟などと同じモノを意味しているでしょう。万葉仮名ではそれらの漢字がランダムに充てられています。
徐福が上陸したという伝説(ここ以外にも各地にある)がある阿須賀神社の地から北北東へ直線距離で25キロの波田須町・ハダスチョウは海(熊野灘)に面したかなり急勾配の地の集落です。急勾配のせいで集落の入り口から中心部は見わたしやすく、その不思議な雰囲気に驚かされます。そこの小高い一隅に徐福宮が祀られています。
この徐福宮は明治時代の終りごろには近くの神社に合祀されたようですが、戦後は無事にここに戻って祀られています。明治政府・国家神道が忌避した信仰にはこのような歴史をたどったものが多く、仏教では観音信仰が主に弾圧を受けたようです。
波田須にも徐福が上陸したという伝説がありますが、ここでは中国の秦の半両銭が発掘されており、徐福本人か、あるいはかなり近い人たちがこの地にあったのは間違いなさそうです。
写真はクリック、タップすれば拡大します。
蓬莱山を背景にした阿須賀神社
波田須の集落
波田須の一隅にある徐福宮
棚田?窯跡らしきものにも不思議な表情が
一帯は植物も美しい。いずれも2020年9月
2021年05月16日(日) 華林のブログ
アジアの色の哲学
アメリカ・ヨーロッパには「マンセルの色相環」とうのがあります。日本の美術系の学校などでも重視されていたようですが、いまはどうなのでしょうか。
さて、このマンセルの『色相環』では、色をその光の波長の長さの順にならべています。科学的で素晴らしい発想だと思いますが、つぎに、もっとも波長が長い「赤」ともっとも波長が短い「紫」をとなりあわせにくっつけて『環』すなわち円をつくります。これが色相環です。
個人的には、赤と紫をくっつけて環にする、という点に違和感を覚えてしまいます。
いっぽう、アジア古来の陰陽五行の哲学から別の色相環をつくることができます。
なぜそんなことができるかというと、ひとつには、五行の哲学は〝循環する〟ということが最重要な要素であるからです。こまかい説明は短文のなかでは無理なので省きますが、この哲学によって「環」をつくるときは、ふつうは、もっとも波長が長い赤を上に、短い紫を下に配置することになります。さらに緑、青や黄色などを図のように配置します。ここから、欧米の美学とは違うさまざまな法則を導くことができます。
次には、図の5色のあいだをどういう色でうめていくか、という大仕事が待っています。論理的な思考と、同時に感性の面でも納得する、そんな図ができあがることを期待しています。その図には、大きな役目があるかもしれませんね。
(図の制作は華林。禁無断複製)
2021年05月03日(月) 華林のブログ
熊野本宮
熊野の神・家都御子神(けつみこのかみ)はスサノヲ神のことと言われます。熊野・大地の伝承に、古い時代に人々がイザナミ神とスサノヲ神を奉じてこの地に来てまつった、とあります。
今は近くの小高い場所にある熊野本宮大社は、明治のあるころまでは熊野川の中州にありました。中州といってもとても大きなものです。しかし、熊野川は舟で長距離を行き来するほどの大きな川ですから、よく言われる百年に一度の大水で社殿はよく流されていたようです。それでも同じ場所で再建して、長い年月ここで祈りを捧げ続けていました。江戸の絵図で印象的なのは、中洲の上流側の端に玉置山(熊野の奥の院とされる)の遥拝所があることです。
人間の姿では想像しにくいことですが、エネルギー体、つまり「氣」のあり方、あるいは龍体・蛇体で表現したときのその動き、といえばいいのでしょうか、スサノヲ神はイザナミ神の変化形とされます。言いかえれば、両者とも本質は「陰」、しかし活動する姿ではスサノヲ神は「陽」となります。五行で言えば「水」と「木」の関係になります。ちょっと難しい話です、難解なら聴き流してください。
蟻の熊野詣で、などと言われたように、この紀伊半島最南端の秘境・熊野へ、古代・中世は多くの人々が参詣し、あるいはここで参篭(行)をおこないました。
(写真はかつての熊野本宮があったあたりの熊野川。この日は美しい表情をみせていました。2020年10月)
2021年05月03日(月) 華林のブログ
ウイルスの〝正体〟
ゲノム(遺伝子情報)の解析の手法の確立により、生物の進化などについて驚くべき発見がなされているようです。ウイルスが生物や人間に入り込みその遺伝子に組み込まれることで、普通の「進化」では考えられない劇的な変化を何度かおこしてきた、というのです。つまりは、そのウイルスによる疫病が蔓延して、次の世代?から人体のしくみの重要な部分が変化した、ということです。
生物が「進化」するということ自体、かなり不思議な話で、高名な科学者が「神」という言葉を口にすることが多いのは、その不思議さに思いを致さざるをえないからでしょう。ましてウイルスによる劇的な進化は、なんとも不思議な話です。
人間の脳にかんしても、ウイルスによるこのような劇的な変化が(少なくとも)一度おきた、という有力な説があるようです。いっぽう伝統文化の世界では、かなり古い時代に「ある事情で、神は人の古い脳のまわりに新しい脳をつくられた」という伝承があります。似たこと、同じことを違う目線から見ているだけ、という感じがしないでもありません。
疫病をおこすのは、伝統文化の世界では牛頭天王です。いってみればウイルスをつかさどる神です。これはスサノヲ神と同じ神とされ、大海原を経綸する神、すなわち地球の現実界をつかさどる神です。疫病が流行ったとき人々は故事に倣って『蘇民将来の子孫』という紙を貼ってこの神に祈りその災禍を逃れようとしました。
温暖化で大海原に発生する台風はスーパー台風と化し、まさにこれもスサノヲ神の領域です。でも、人々はこの神に祈ることがなくなりました、つまりは、地球をモノとして扱い自然に対する畏怖の念を失ってしまいました。
いま問われているいちばんのことは、人々の心のありかたなのでしょう。
(写真の「大海原」は石川県珠洲市にて、2020年10月。古来、スサノヲ神の〝リズム〟は三五七とされる。)
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