アジア古来の哲学と自然と芸術

彩流華 華林苑

Sairyuka art and old Asian philosophy rooted in nature.

華林苑 花日記


 

2022年01月20日(木) 華林苑 花日記

花展の作品 - 熊野の山の神

2022年1月15日~23日に金沢市の金沢エムザで開催の北國花展での作品です。
1ブースに2作品を生けていますが、そのうちの彩流華です。
絵は「熊野の山の神」で華林作、額装は永嶋明さま、昨年秋の熊野遊行の直後の作品。
華は彩流華・剱(金)の華、花材は椿一色、華林挿。20220120121816-karinen.jpg


 

2022年01月04日(火) 華林苑 花日記

水くぐりの梅

 「水くぐりの梅」は江戸期の文人、芸術家にとって魅力的なテーマでした。梅の枝が下がって川の流れをくぐり、また上へ昇る、という構図です。МОA美術館所蔵の尾形光琳『紅白梅図屏風』はまさにこのテーマを描いています。
 紅白の梅を川の左右に配置し、白梅の枝が川の流れをかすめるように下がってまた上方へ向かいます。向かって右に紅、左に白、また川の流れをかすめるのが白の梅、という構図が恐ろしいまでの緊張感あふれる美しさをみせています。
 じつはこの「色」と「水」の配置は古来の陰陽五行の哲学に拠っています。京都の豪商の家に生まれ、いわば放蕩の挙句に画業に専念した光琳は、この「放蕩」の時期に多くのことを学んだとも考えられます。
 当時の文化人の素養をみるうえでよく引き合いに出されるのが『和漢三才図会』です。これはアジア古来の哲学や地誌、有職故実、風俗などあらゆる分野を網羅した百科事典のようなものですが、これを一人で著した寺島良安は江戸中期の大坂の民間人の医師です。復刻版もあり現在でも簡単にみることができるこの書は、当時の文化人が如何に博識であったかを示しています。いっぽうで、多くの文化人、芸道者たちのあいだにはかなりの交流があったことが近年知られるようになっています。京都に生まれ後に江戸の街にも住み、晩年は京都へ戻った光琳が、古来の和歌や伝統・哲学をよく知り、それにもとづいて絵画などを制作したという事実が各作品をみるとよく分かります。
 江戸時代中期に、立花に代わる生け花『なげ入れ』を確立させてかなり存在感があったと思われる入江玉蟾の版行本『挿花千筋の麓』には、この『水くぐりの梅』をテーマに梅の枝が水盤の水をくぐるなげ入れの絵が掲載されています。そこには平経章・後拾遺集「末むすぶ人の手さへや匂ふらん梅の下ゆく水の流れは」の古歌がそえられていますが、何がきっかけだったのでしょうか、この歌は当時よく知られていたようです。
 図はそれから百年強をへた幕末に、古流の四代家元とされる関本理恩が版行予定ではたせなかった自筆の書『秀花図式』にある「水くぐりの梅」の図です。同じ和歌が記されています。ここでは、「なげ入れ」から発展して「生花(せいか)」の図となっています。このように、江戸後期には一世を風靡した生花(せいか)の各流ではこのテーマを好む例がいくらか見られるようです。

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 古流の四代家元・関本理恩の未刊行に終わった『秀花図式』のなかの「梅の水くぐり」の図。「白梅」と指定されている。下がる梅の枝は水の下までくぐってもいいし、水面に近づきながら水に入らなくてもいい、と伝承される。言うまでもなく梅は古来、強い文化を持つ木。香りも愛でられ、和製漢字の「匂」は「勻・イン、キン」から来ていると考えられるが、匂と勻には若干のニュアンスの違いがあるのが興味深い。この違いの理由には五行特有の哲学と日本的な文化土壌があると思われる。和歌は男女の契りを雅に表現しながら、いっぽうで「水」によるミソギやムスビといった重いテーマを隠していることが、この和歌が多くの芸道者たちの心をとらえた理由だろうか。


 

2021年12月02日(木) 華林苑 花日記

カタクリの図にみる「出生(しゅっしょう)」の意識

… 江戸期の生け花の『哲学』
 前にもご紹介した『挿花直枝芳』(入江玉蟾選、明和六年一七六八)の奥付がある板行本の「春」の部の一頁です。
 『生花(せいか)』が爆発的に広がる前夜の、初期の生花の書です。一世を風靡した立花にくらべると大きく趣が違うので茶花と受け取られる場合もありますが、茶室の花ではなく床の間などの生け花の新たな潮流です。
 この絵はカタカゴつまりカタクリの花で、万葉集の大伴家持の歌に「堅香子」として登場するのは良く知られます。絵にそえられている二首のうち右の和歌がそれです。家持が越中守として国府(現・富山県高岡市伏木、海岸に近い丘陵地)で詠んだものとされますが、今でも国府の跡とされるあたりには杉木立のなかにカタクリの群生がみられます。自然が破壊される度合いが少ない北陸ならではの風雅といえます。
 古代の国司は漢詩や和歌が必須の教養だったようです。近年では天智・天武・持統天皇の時代に大きな政変があったという見解が優勢のようですが、大伴氏はそれ以前からの名族で、新着の中国文化の漢詩よりも古来のヤマト言葉の和歌に秀でていたと考えることができそうです。それはヤマト言葉の「言霊」の哲学で、和歌が非日常の世界で強い言葉の呪力を発揮するツールという思考は、のちの平安末期以降の藤原定家にはじまる和歌の流れとは対極にあります。
 後世、ヤマトの文化を追い求めた江戸の国学者たちは、藤原定家以降主流となった和歌や文化の潮流を非難しています。万葉集の時代には厳密に守られていたと考えられる「発音」と三十一音の伝統が、藤原定家の新たな和歌文化の提唱によって破壊されてしまった、との主張です。それは、武家文化と貴族文化の本質にかかわる問題ともいえます。
 さて、絵のタイトルと説明の部分には、カタクリの漢名や異称をあげています。カタクリの絵は、残念ながら必ずしも忠実に写生したものとは言い難い点があります。ただ、一つの茎に二枚の葉が付いているのが「出生」なので、二花を生けて葉の総数が四枚であることも許される、と説明している点には注目されます。
 『器が「陰」なので、そこに挿す花や枝・葉の総数は「陽」数字、つまり奇数でなければならない』という哲学と整合性がないため、ここではあえて付記しているわけです。(ただし、「二」は古い哲学では奇数とも偶数ともとるので、生け花の数字では二は許される)逆にいえば、花や枝・葉数は陽数字=奇数でなければならない、という考え方はその時代には定着していた、ということも窺えます。奇数偶数の哲学を優先するか、出生(個性、ただし深い意味で使われる)を優先するか、確かに難しい問題です。生け花理論と、それにもとづく実際の作品の美しさ・感動が一致することが、何より求められるでしょう。
 和歌は「もののふの 八十(やそ)をとめらが 汲くみまがふ  寺井の上の かたかごの花」などと訓まれる、よく知られるものです。ちなみに、「もののふ」は後世には「武士」とも書きますが、古くは「物部」と書きます。物部氏は、大伴氏などとともに古代史の鍵を握る氏族・職掌と考えられており、その祖はニギハヤヒノミコト、すなわち大国主、大物主などと呼ばれる神です。〝ニギハヤヒ〟の正式な名前はアマテラスと似ており、非常に複雑な日本の神まつりの事情を示唆しています。
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2021年11月16日(火) 華林苑 花日記

人麻呂の代表作と「三艘舟」の生け花

 江戸期の「軸と花」の系譜……

 江戸後期には、生け花の流派では『西の未生流、東の古流』といわれるほど江戸の町では古流の生花(せいか)がさかんでした。江戸時代中期、幕府の文教政策として「家元」制度が生まれ、江戸期には一流派に一家元のみが存在しましたが、明治維新の騒乱期のなかでとくに江戸の武家文化は壊滅状態になり、その復興は明治の遅い時期まで待たなければなりませんでした。能もまた同じような途をたどっています。
 今日では古流の四代家元に数えられる関本理恩は関西に生まれ、江戸にうつり三代家元関本理遊にその才をかわれ養子となりました。その生き生きとした魅力に多くの門弟が集った三代理遊の生け花に対し、四代理恩は体系づけて伝書をつくるとともに、その根底にあった陰陽五行や天地人の哲学をさまざまに文書化し発展させました。
 三代理遊のとき家元と門弟の作品図が何冊か板行されています。和歌、陰陽五行、茶道、有職故実など広い知識をもつ四代理恩は嘉永六年(一八五三)一日百瓶生之図として『古流生花松の志津玖』を板行、巻末には門弟などの和歌を多数載せています。この本は今日でも少なからず存在しているようです。各頁の作品図に和歌はなく巻末などにまとめて和歌・漢詩を入れる体裁は、当時の定形の一つだったようです。
 その奥付には以降の出版予定が記され、『生花道具図式』『生花桜の志津玖』など八冊の書名があげられていますが、幕末の動乱期となりいずれも果たせませんでした。幸いなことに多くの原稿は完成形で遺され、版木の制作にとりかかったものもあります。また、後世に古流の「伝書」として普及したものの元本となる具体的な図や解説が数多く遺され、興味ぶかいものとなっています。
 そんな出版に至らなかった書のなかで、『生花桜の志津玖』では柿本人麿呂の「ほのほのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしそ思ふ」を足利義政と同朋衆の故事とともに記し、その軸のまえに三つの唐物の舟を置き花を生けた図を載せています。
 『桜の志津玖』は分かりやすい書でありながら「足利義政の荘厳図」をきちんと載せるなど重厚なつくりになっており、国学者ともいえる理恩らしい古来の重厚な和歌の選択や深い世界観がみられます。またその詳細な解説書でもある『瓶中抄』も遺りますが、こちらは出版というよりは秘伝書として書かれたふしがあります。
 さて、「ほのほのと … 」の歌は伝人麿呂作とされながら文句なしに人麿呂の代表作として常に取り上げられる不思議な歌で、その内容にも、また三十一音の響きにも独特の強い、ときに不気味とも思える力があります。総じて柿本人麿呂の歌は音に力があり、歌聖とよばれたことが納得できます。中世の和歌・連歌の会では菅原道真像がかざられ、道真像がかざられる以前には人麿呂像のお軸がかけられその前に花と灯明が置かれました。(華林)
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『櫻の志津玖』より「三艘舟の生方」。唐物の舟を三艘ならべ梅、柳、タンポポを生ける。同書は古流の江戸期最後の家元関本理恩の未刊行本。著述は幕末ごろにかけて。「生花(せいか)」の花型は、前回まで取り上げた「なげ入れ」から発展的に江戸中期~後期に確立していった。古流にかぎらず生花の流儀では、陰陽五行・天円地方などのアジア古来の哲学を根拠とする場合が多い。立花の行き過ぎた装飾性を否定する意識もみられる。また生花の花型の確立には花材を花器のフチから離れた場所にやや傾斜して立てることができる「木密(こみ)」の発案も大きな力があったと思われる。


 

2021年10月31日(日) 華林苑 花日記

江戸中期の〝なげ入れ〟図と水仙の和歌

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またたくひ 浪(なみ)を凌(しのぎ)し 水仙の あひ見るけふや 千代の初花

 『挿花直枝芳』は『生花百競』という名前でもよばれる「なげ入れ」から初期の生花(せいか)へ移り変わるころの書です。「千家新流」という流名を冠し、入江玉蟾が選者となる江戸中期、明和六年の奥付がある板行本です。版元に名を連ねるのは京都、大坂、江戸の6者で、上方から江戸へと文化の中心が移り変わる時期であることがリアルに分かります。詳細は専門家に譲るとしても、幕府の文教政策である家元制度や「流派」がまだそれほど浸透、定着していないころかと思われます。
 その第四巻の「冬の部」の巻頭をかざるのがこのページ。和歌や立花の往年の大スター、後水尾院を登場させています。
 後水尾院は膨大な数の和歌を残し立花にも堪能で、公家、大名、僧侶などをまき込んで「寛永文化サロン」を主宰したことはよく知られます。同時に、武家=徳川幕府の権威が禁中、公家を上まわってゆく時代で、「サロン」を主宰するなど精力的に活動した背景にはそんな事情もあったと思われます。立花に熱中しすぎて歯が悪くなった、いやそれは和歌に熱中し過ぎたからだ、といったエピソードも有名です。
 ここに掲載したページの和歌をかんたんに解説してみますと、「またたくひ」は「またたく火」、平安後期の法華経にまつわる和歌にいくらか登場しているようで、仏前の灯明のゆらぐ様子から人の命のはかなさ、あやうさ、などを表現した語句かと思われます。近世ごろにはいくぶんニュアンスが記号化しているのかもしれません。水仙はほんらい海風の厳しい岩場に生えますが、荒い波が来る岩場のあやうさ、という意味での「またたくひ」の用例は江戸期にはほかにもみられます。
 続く「波を凌ぎし水仙の」では、実際には「仙」の前に「水」の文字はみられません。「し」と読めますが、思文閣出版・花道古書集成第三巻に所収の同書のコピーでは、ここに掲載したものと同じ板の本とみられますが、「仙」のまえの「し」に何か加筆したような跡があり、所有者がやはりそのことが気になって修正したのかもしれません。あるいは、浪と凌の字を繰り返す意味の記号「ゝ」で凌浪仙=スイセンと読ませるのでしょうか、いずれにせよ写本時や板刻時の誤りの可能性もあります。
 水仙花の異名は凌浪仙、と但し書きにあり、波(浪)を凌ぐ花(仙)、という名前を洒落てそのまま和歌に取り入れたつくりになっています。「あい見る今日や千代の初花」というお目出度い言葉で結ばれているので、この書では冬の部でありながら、和歌は初春の歌として詠まれたものかと思われます。(ほんらいはお正月なら春の部です)
 染付けの洒落た姿の陶器が印象的で、この時期の「なげ入れ」に特徴的な、生け口の片方に寄せかけて生けている点にも留意したいものです。 (華林/東真華記)


 

2021年10月17日(日) 華林苑 花日記

軸と花、床の間の配置

 今日では、書物の類は印刷されて出版されたものに信憑性があると思われがちです。しかし、かつては大切なものは手書きで写されて、出版されたものは気軽なもの、と考えられがちでした。たとえば東京の地名などでも、出版された『江戸名所図会』の説明と幕府の調査資料『御府内備考』では明らかに食い違う場合がみられ、明らかに後者に信憑性が感じられます。出版された版木でも何度も修正されたものも多く、出版文化がまだ始まったばかりのこの時期の実情を物語っています。
 というわけで、生け花や床飾り、あるいは和歌や有職故実、陰陽五行など古来の哲学書でも、重要なものは筆写や聞き書きで伝えられていきました。とくに貴重な本を借りて書き写すという作業は、芸道や学問の世界では必須の作業でした。木版刷りで出版されるということは、その文化が大都市を中心に市民にあるていど浸透してゆく時期ということもできそうです。そして出版はあくまでも民間の経済行為なので、市民に受ける本・売れる本として経済性を優先して面白おかしく、また余計なコストをかけないようにして制作されることも少なくなかったと考えられます。もっとも、それは江戸期にかぎられたことではなく、現在にいたるまで変わらない側面かもしれませんが。
 そんなわけで、古い筆写本はコアの部分の文化の重要な参考資料となります。ただ、注意も必要です。
 床飾りについては『君台観左右帳記』がよく知られますが、やはり筆写されたものが複数残されているようで原本はないとされます。これは武家文化ではバイブルのように考えられた室町・東山文化の同朋衆の床飾りの記録ですが、原本が書かれたとされる時代は東山文化の盛りの時代からはやや後で、写本のみが残されるということも考えあわせれば、百パーセント当時の考え方を伝えているということに異論も生じると考えられます。
 写真は、華林苑に伝わる『荘厳令』の一ページです。筆写本の類です。江戸期のものと思われます。内容は床飾りの法則で、武家屋敷を念頭においているのでしょうか、興味深いのは「一の間」と「二の間」で陰陽の配置が逆になっているところです。(ここでは詳細な解説は省略します)これを所蔵していた人は『太極図説』などの陰陽五行の書も持っており、その哲学と床飾りの関係を理解していた可能性が高いと考えられます。このようにして、複数の蔵書を見くらべることで、一書を妄信した場合に起こりがちな片寄った見解を避けることができます。(華林)
【お詫びと訂正】前回の烏丸広光は烏丸光広(からすまる・みつひろ)の間違いでした。お詫びして訂正します。

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江戸時代の筆写の伝書『荘厳令』の一頁。(華林苑蔵)「一の間」の飾り方を示す。生け花は描かれておらずこういう伝書は多い。美しい絵が添えられた伝書ではかえって細部に違和感をおぼえる場合もある。
中央の卓の上は向かって右が陽=灯、左が陰=花となっている。別のページには「二の間」の図もある。


 

2021年10月07日(木) 華林苑 花日記

『花車』

  前にご紹介した『立花訓蒙図抛入百瓶之花型』四之巻より、この一頁では「花車」を烏丸広光の好みとして紹介しています。
  烏丸広光は(からすまる・みつひろ)は桃山時代から江戸前期の公卿。歌人、能書家としても知られ、仕事で江戸へ下ることも多く幕府や武家文化をよく理解した人といわれます。
  江戸の文化では、このような和歌に秀でた文化のにない手が何人も知られています。たとえば東常縁(とうつねより=東野州・とうやしゅう)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人で美濃篠脇城主でしたが、やはり数々のエピソードとともに江戸で語り継がれてゆきます。そしてそんなふうにして、すぐれた和歌が代々文化人のあいだに受け継がれていったのです。
  まだ出版文化がまだ成熟していない時代で、出版物はむしろ信憑性が低いとされ価値あるものは筆写で伝えられていった時代ですから、和歌の文化もまた本の貸し借り、あるいは対面による伝授(古今伝授)によることが多かったのです。
  さて、烏丸光広は細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、その歌才をかわれて後水尾上皇や三代将軍・徳川家光との深い関係も知られています。本阿弥光悦や俵屋宗達などとも交流があったことが知られ宗達の絵に賛(文)も書いており、公家としては珍しく江戸の文化人に少なからぬ影響をあたえています。公卿らしくない、とらわれない性格の才気あふれる歌人だったのです。
  このような実態をみてゆくと、江戸の有名な作家たちが古来の和歌の「言葉の美意識」を絵や工芸などの「色・形」にして表現していったさまをよく理解できます。そして建築に「床の間」が定着するにつれ、それは生け花にも大きな影響をあたえました。生け花は古い和歌の美意識を表現するという、かつての室町時代・東山文化の銀閣寺・会所の高い次元を一般の武家屋敷で取り戻していったのです。
  今回は具体的な和歌は取り上げていませんが、公家文化の印象が強い「花車」という『花器』が武家文化の江戸の書『立花訓蒙図抛入百瓶之花型』に公家・烏丸広光の名前とともに登場している点に注目したいと思います。上の解説文には「大名かたに飾られし」の一文もみえます。(華林)
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『立花訓蒙図抛入百瓶之花型』四之巻より「秋花・花車」の項
解説には、ほんらい秋の千草の品々はそぐわないように思えるこの花車も、混ぜずにそれぞれに生かしていけることにより美しくみえる、といった主旨のことが記されているようだ。穂が大きいススキ、笹リンドウ、梅もどき、女郎花、庵萩、と読めるが、庵萩は庭の萩か。当時、立花から離れてはじまった『抛入(なげ入れ)』の花型。『立花訓蒙図抛入百瓶之花型』は元禄9年(1696)出版。


 

2021年09月18日(土) 華林苑 花日記

『秋は千草八千草』

江戸期の「軸と花」の系譜……2

みどりなるひとつ草とぞ春はみし秋はいろいろの花にぞありける  よみ人しらず  古今和歌集

 鎌倉・平安ときに奈良時代までさかのぼるすぐれた和歌の数々は、日本の伝統文化のなかでキーワードのように伝えられていきます。言葉の文化、なかでも和歌を軸として推移していったのが日本の伝統文化でした。
 そんな和歌には、狂言「ふねふな」にまで登場する『ほのほのと あかしの浦の 朝霧に 島隠れゆく 舟をしそ思ふ』(伝柿本人麻呂)、尾形光琳のカキツバタ図屏風(根津美術館所蔵)のテーマと考えられる伊勢物語の八橋の段のカキツバタの和歌『から衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ』や同じ光琳の紅白梅図屏風(МОA美術館)のテーマであっただろう『末むすぶ人の手さへや匂ふらん梅の下ゆく水の流れは』(平経章 後拾遺集)などなど、多くを数えることができます。
 『末むすぶ … 』の歌は鈴木春信の浮世絵にも登場し、分かりやすい内容、男女のときめきの舞台に古来の美意識が設定されていること、そして梅という豊かな文化に彩られた樹が主役であることなどが創作意欲をそそったものでしょう。
 江戸時代の生け花にも和歌の文化は取り入れられていきました。床の間という、和歌の軸を飾るのに適した建築様式が江戸時代に確立していったことは、「和歌と花」の文化が大きく花ひらく要因にもなりました。そして『末むすぶ … 』の和歌にそって生けられる「水くぐりの梅」は江戸初期~中期の「なげ入れ(抛入)」に、さらに中期~後期の「生花(せいか)」に取り入れられて新たな伝統となってゆきます。
 ここでは今の季節にあわせて、「秋は千草八千草」という言葉のもとになった和歌が江戸初期~中期の生け花「なげ入れ」の書に掲載されているのをご紹介します。(華林/蓮井希京記)

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 江戸中期、元文年間(1736-41)の『抛入岸之波』(釣雪野叟)のなかの図。野叟は漢文調の題をつけ図の花器は中国渡来の唐物と考えられる。和歌は日本の古今和歌集のもので、足利義政の東山文化由来の唐物の文化から純和風の文化へと移り変わる江戸前・中期にあってこの花と花器の組み合わせは面白い。さらに江戸後期・末期になると同じこの和歌に純和風の図が添えられるようになってゆく。
 和歌の意味は「春は同じ緑色の芽で一種類の草のようにみえていたが、秋になって成長して花が咲いたらいろいろの草が入り混じっていて美しい」というもの。これが「秋は千草八千草」という伝統的な美意識となり、さらに江戸の秋の生け花ではさまざまな種類の草を混ぜ生けるという文化へと成熟してゆく。
 和歌俳句の世界でも、後の時代へとその美意識はうけつがれる。以下はその例。
◇湧きかねしおなじみどりの夏草を花にあらはす秋の夕暮れ/小侍従
◇夏野をばおなじみどりに分けしかど秋ぞおりつる七草の花/藤原隆房
◇みどりなる春はひとつのわか草も秋あらはるるむさしのの原/順徳院
◇緑なる一つ若葉と春は見し秋はいろいろにもみぢけるかも/良寛
◇草いろいろおのおの花の手柄かな/芭蕉


 

2021年08月22日(日) 華林苑 花日記

ミョウガ の〝掌華〟

 色気より食い気で美しい花に気がつかないミョウガ。葉がしげる根もとに出る一つのツボミ状のミョウガのなかに何個も小さな莟が入っており、順次、花を咲かせます。まだ花期は続きそうです。
 漢字では茗荷。〝茗荷〟は中国ではカキツバタを意味したと何かの本で読んだような記憶がありますが、アヤメの仲間を指したという話はネット上でも散見します。
 中国大陸での植物名と日本の植物名を比定してゆくのはかなり難しそうな作業です、広い国なので地域による文化のちがいもあるでしょうし、地域ごとの植物相のちがいや固有種も少なくありません。〝柏〟なども国、時代で指す樹が違うものの代表です。竹も中国の竹はおそろしくバラエティーに富んでいます。
 生けた場所は金沢の華林苑、8月22日。
 小さな生け花を、手のひら(掌)の華、〝掌華(しょうげ)〟と呼んでいます。掌華では野生のもの、庭のものなどが美しい表情を見せます。大切なのは器えらびです。 (華林)
 
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2021年08月09日(月) 華林苑 花日記

葉の木蓮

 モクレンにかぎらず、枝ものを生けるといえば花を思い浮かべます。でも、それぞれの樹の葉や枝ぶりはとても個性的で、禮華ではその美しさを存分に楽しむことができます。左側には木蓮の実もみえています。
 2017年9月に生けた作品で、今回はじめての発表です。
 華、花器の意匠/華林   陶器制作/前田弥冨
モクレン、ヒサカキ、デルフィニウム、小菊2色
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2021年07月20日(火) 華林苑 花日記

栂を生ける

 「栂」とかいて、地域によってはトガ、ツガと微妙にちがう呼び方をしているようです。じっさいに植物としての違いもあるようで、林業においては別のものとして区別するという話を伺ったことがあります。ここで生けたのはツガでしょうか?
 アスナロは石川県ではアテとよばれ、漢字は「档」です。さまざまな説があるようですが、貴い、という意味とする説がなんとなくしっくりきます。
華型は禮華(れいか)です。
  華、花器の意匠/華林   花器制作/荒木実
 栂、アスナロ、三つ葉ツツジ、ヒオウギ、鶏頭、キリフキソウ、クジャクソウ
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2021年07月06日(火) 華林苑 花日記

〝月草〟 の掌華

 万葉集では月草(つきくさ)とよばれるツユクサ。古来、紫は〝高貴な色〟とされ、野にあって天の月を映す高貴な花と考えられたのでしょうか。月は天における陰の象徴、そして陰の本質をあらわす色は、アジア古来の哲学では紫なのです。
 生けた場所は金沢の華林苑、7月6日。前日に小松市の元田様にいただいたツユクサです。
  華/土橋穂美 陶器/華林
 小さな生け花を、手のひら(掌)の華、〝掌華(しょうげ)〟と呼んでいます。
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2021年07月05日(月) 華林苑 花日記

 江戸期の「軸と花」の系譜 … 1

 華林苑には江戸期のさまざまな生け花の書物が残されています。
 『立花訓蒙図抛入百瓶之花型』は元禄9年(1696)に出版されたもので、○○訓蒙図彙などの名前がつく多くの同様の書は、ヒットした『訓蒙図彙』(きんもうずい/中村惕斎/寛文6年(1666=図入り百科事典とされる)のあとに続いた多くの出版物です。『仏像図彙』などなど、古書店の多い金沢の街ではかつてはよく扱われていたようです。
 いけばなの書は江戸時代に入って出版産業がさかんになるころから上方を中心に数多くあったようで、そのなかでも立花とも茶花ともちがう新たないけばな「なげ入れ(抛入)」にかんするものではこの書はごく初期のものではないかと考えられます。「床の間」のスタイルが確立して普及しだす江戸初期では、立花も茶花も床の間にとっては最適なものとは言えず、必然的に生まれてきた花といえるでしょう。そしてこの時期(元禄年間)にこれだけの書がつくられるということは、それよりも一定期間まえから「なげ入れ」がおこなわれていたと考えるべきです。そして元禄のころからは京都、大坂にくわえて江戸にも版元がふえていったようで、つまり江戸でも芸道文化が花開きはじめます。
 このページの軸の哥は藤原俊成の「むかし思ふ草の庵の夜の雨に泪な添へそ山時鳥」で、新古今集にみられるものです。この種の書をみていると、同じ和歌でも今日一般的に伝えられる字句とすこし違うものがみられる場合が少なくないようで、ちがうままに味わうのもいいと思います。また、哥の解釈以上に言葉の響きや単語の意味の深さといったものを楽しみたいと思います。ここでは母音が続くと一文字にしか数えないという万葉集などの「字余りの法則」が部分的に生きているようで、音の響きにはなおのこと敏感でありたいと思います。さらには、あのホトトギスのまるで異次元からきたような鳴き声を思い浮かべることができれば、さらなる幽玄の世界に浸ることもできるでしょう。
 花は卯の花(うのはな)、鷹の羽薄(たかのはすすき)と読めます。器の名前を各頁の題名としており、「菱口」は器の生け口の形によるものでしょう、器が花にとって絶対的に重要であるという室町・同朋衆いらいの感覚と思われ、軸と花の関係を重視するのも同様です。立花ではこの感覚は失われ、絢爛豪華を競い合う『花会』という道を歩んでいきました。
 図の上の解説文はずれ込んでおり、この図の解説文は2ページほど前にあります。また図の左上には「夏花」とあり、四季ごとの構成となっています。   (華林)

むかしおもふ くさのいほりの よるのあめに なみだなそへそ やまほととぎす
〔図はクリック、タップすれば拡大します〕
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2021年06月22日(火) 華林苑 花日記

立花の巻物

 華林苑には江戸期、明治期のさまざまな生け花の書物が残されています。
 写真は立花の巻物です。板行されたもので、奥付(奥書)に出版者の名前があり、柏屋藤九郎と読めそうです。立花家の大住院以信は江戸前期に活躍した名手と言われた人で、この巻物は、以信の花を主に若干の門弟の花をくわえた絵図=作品集から木版をおこしたものかと考えられますが、正確なところはわかりません。残念ながら保存状態はあまりよくありませんが、絵そのものはとても美しい刷色のままです。江戸時代の技術には驚かされます。
 立花は室町時代にはじまった花で、室町将軍家の同朋衆のいわゆる古立花(後世に想像で描かれた図はありますが、謎の花とされます)より少し後の時代にはじまったものです。花会などで華美さを競い一世を風靡しましたが、同朋衆の「床の間の花」や江戸初期~中期の「なげ入れ」の考え方とは違い、書画・和歌などの軸と合わせて生けるものではありませんでした。
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2021年06月22日(火) 華林苑 花日記

桑 風の華

 桑(くわ)の木を彩流華・風の華の省略形、つまり一筆書きのような生け方でいけています。
 養蚕(絹織物)の木、またそのまま食べても美味しマルベリーの木ですが、東西の神話にも登場しさまざまな興味ぶかい側面がみられます。木材としても使われ、生薬(漢方薬)の材料にもなり、いくつかの言葉やいいまわしのもとになるなど文化満載の植物です。調べてみれば面白いかもしれませんね。五行の観点からは陰陽の交わりのなかで〝日〟つまり〝陽〟の性格の文化が強い木とも言えます。
 いただいた桑の木は水揚げが難しくほうほうのていで生けています。数年前の作品です。
 陶花器 … 意匠/華林 制作/前田弥冨  華/華林
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2021年06月05日(土) 華林苑 花日記

どくだみ の〝掌華〟

 小さな生け花を、手のひら(掌)の華、〝掌華(しょうげ)〟と呼んでいます。掌華では野生のもの、庭のものなどが美しい表情を見せます。大切なのは器えらび。今回は意図あって黒い器をえらんでいます。
 生けた場所は金沢の華林苑、6月4日。金沢では今がドクダミの花のさかりです。
 一重のドクダミ、八重のドクダミ、葉はそっくりです。八重のほうの器は意匠・華林、制作・前田弥冨。一重のほうはかつて金沢の郊外の倶利伽羅峠のふもとの道の駅のような場所で求めたと記憶しています。(華林)
  華/東 真華

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2021年05月22日(土) 華林苑 花日記

ユズリハ(杠) の新緑

 今年の葉が成長すると去年の葉がいさぎよく散ることからきたとされるユズリハの名前。若い葉の赤い葉柄が柔らかい緑に映えます。
 彩流華・なげ入れ調 … ユズリハ、バイカウツギ、レースフラワー
   陶花器 … 意匠/華林 制作/前田弥冨  華/華林

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  上の日付は投稿日で、生けた日ではありません。季節の花、季節をやや先どりした花を過去の作品から選んでいます。

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2021年05月22日(土) 華林苑 花日記

ミツバツツジの新緑  なげ入れ調

若い葉が赤みを帯びる木はよくあります。新緑と呼べるのか、その一歩手前なのか‥‥。赤い色素はまだ弱い葉の組織を紫外線の害から守るため、とも言われます。切れ込みが大きい赤茶と緑の葉がミツバツツジ。花が咲いた後です。
彩流華・なげ入れ調 … ミツバツツジ(葉)、ノリウツギ、アスチルベ、アトランティア
陶花器 … 意匠/華林 制作/前田弥冨  華/華林

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2021年05月22日(土) 華林苑 花日記

菖蒲を生ける なげ入れ調

 菖蒲は花菖蒲=ハナショウブとよく間違われます。それもそのはず、菖蒲に似ていて花がまったく違う豪華なもの、という意味のネーミングです。どちらも池に生え、もともとは凛とした姿の葉が喜ばれたものと思われます。古代に青銅の剱が尊ばれたのと似た感覚でしょうか。
 菖蒲は菖蒲湯などで知られます。花はサトイモ科らしい特徴をそなえていますが、地味なものです。いっぽう花菖蒲はアヤメやカキツバタなどの仲間で豪華な花ですが、江戸時代からさかんにつくられた園芸品種、つまり交配で生み出された人工的な植物です。
 同じ水草のカラー(海芋、花と葉)をあわせて古い打ち出しの「薄端」に生けています。
(華は華林) 

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2021年05月22日(土) 華林苑 花日記

紫陽花の季節の禮華

  数年前に生けた禮華です。カエデ、ガクアジサイ、ヤマアジサイ、ススキを生けています。
  じつはこれ、いただいた花材です。一時期は自分で、あるいは切り出しの方と一緒に山野で切った花をさかんに生けていた時期があり、野生のもので水揚げのよいもの、悪いものなどあるていどは頭に入っています。また美しい植物は、生えている場所にも独特の生き生きとした雰囲気があり、そんなことが生け花の原点だと痛感します。
  いただいたカエデなども、その方(蘆原様)がお住まいの地が生き生きとした場所であることを思わせました、金沢のやや山手です。
  (華と陶器などの意匠は華林) 

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2021年05月20日(木) 華林苑 花日記

五軸(五幅対)

 「五行」はアジア・日本の古い哲学です。ここからさまざまな文化芸道、あるいは宗教のあり方が生まれています。
 五行のそれぞれを、つまり木火土金水の在り方を一筆書きのように『円相』として数年前に描きました。そして昨年の金沢市での花展で、この五軸に華を生けました。よく似たころ、東京・元赤坂でのイベントでは、もう一つの五軸を飾って花を生けました。
 五行を表現するものを左右に一列にならべるのは、鎌倉時代のころからはじまったかと考えています。(調べれば、もっと古いものが出てくるかもしれません)それ以前は、東西南北と中央、あるいはそれを平面的に大きな軸に描く、といったものだったようです。
 たとえば「五壇の法」とよばれるものも、鎌倉時代あたりに左右に一列にならべるようになったのでしょう。ただ、これが五行を意味するということはあまり意識されていなかった場合もあるようで、ならび方が不自然な例もみられるようです。
 室町・東山文化のころの床飾りの図などの史料をみていると、五軸をならべてもっとも荘重な飾り方としています。「五行」とは記されていませんが、当時の常識からいって五行を意味する五軸であったことは間違いないでしょう。
 写真の作品の軸は、向かって左から火・土・金・水・木となっています。そしてそれぞれに合った意味合いの華を生けています。

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