華林苑 花日記
2023年02月18日(土) 華林のブログ江戸の〝霊的骨格〟2 将門塚と阿弥衆(あみしゅう)
将門塚にまつわる歴史では、時衆二祖とされる他阿真教(1237-1319)が注目されます。鎌倉時代、一遍上人の志を継いで時衆を発展させた人ですが、中世の時衆とはすなわち阿弥衆のことで、他阿真教の百五十年ほどあとには何人かの阿弥衆が足利義政の東山文化のにない手となったことはよく知られます。日本の床飾りの文化、生け花や茶の湯、絵画(お軸)や器などは東山文化にはじまる、とされますが、その東山文化のにない手となった阿弥衆はとくに「同朋衆」ともよばれ、その同朋衆の実体については意外と掘り下げた研究が少ないようです。そんななかで近年は剃髪・帯刀をした三人がえがかれた「足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻」が発見され同朋衆の具体的な絵として話題になりました。
時衆=阿弥衆はナームアミダブツを唱えて踊った、ということがもっともよく知られるところでしょう、それは今日の盆踊りの原点と言われますが、長野県佐久市跡部には当時の踊念仏が今でも残っていて国の重要無形民俗文化財に指定されています。その阿弥衆の頂点にたった代々の遊行上人は一ヵ所に定住しないという厳しい掟があったようです。
時衆は○阿弥(○阿とも)というふうに阿弥の名前をつけるのがならわしで、能で有名な世阿弥もまた時衆と考えるべきでしょう。これには異論もあるようですが時衆をどう定義するかの問題でもあり、世阿弥が佐渡で書いた金島書には時衆ならではの文化がみられます。「申す」ことを基本とした猿楽を夢幻能という高い境地に引き上げ、好んでテーマとしたのも「はごろも」や数々の脇能など純粋芸術としての高い境地であったことは、分野こそちがえのちの東山文化の同朋衆に強く共通するものがあります。
宗教教団としての「時宗」が確定するのは藤沢に本山が定着するなどした江戸時代以降とする研究者は多く、ここでは今日的な意味での宗教としての時宗を問題とするのではなく、中世までの不思議な文化を持っていた時衆=阿弥衆に着目するものです。
さて、時衆の祖・一遍のあとをついだ形の他阿真教は北陸や関東などに広く遊行したようです。そのなかにこの将門塚の地があります。
将門塚の地にあった日輪寺はもとは天台宗だったとされますが、他阿真教は将門のタタリに苦しむ人々のために祈とうし将門に「蓮阿弥陀仏」の法号(戒名)を贈ってこれを鎮めた、という歴史が残されます。以来、日輪寺は時衆の道場となり、のちに移転して将門塚の鬼門・北東の方角の浅草駅の近くにあります。ここには他阿真教の真筆から採ったといわれる「蓮阿弥陀仏」の石塔婆が今でもあり、将門塚にある今日の碑もこの文字から採られたということのようです。
他阿真教が将門のタタリを鎮めた「手段」はナームアミダブツという念仏・称名によったと考えるのが自然です。世阿弥も「申す」ことの芸術・能を大成し、いずれも音声を発すること、言いかえれば「言霊」への志向が強くあります。両者はまったく違うことのように感じる方も多いと思いますが、日本において天台密教でサンスクリット語の発音が研究され同じ人の手で浄土教も将来されてそこから時衆をふくむ念仏系の宗派や文化が生まれた過程や、江戸の国学者たちによってヤマト言葉の研究がなされた結果は、「音」の観点からみると不思議な一致をみせ、そこからは従来とはちがう「言霊」への理解が生まれます。このテーマはまた違う機会に譲ろうと思いますが…。
将門塚の地には石室?などの遺跡があったという記述も資料類にはみられます。開発最優先で古いものをよしとしない時代が続いたことは周知のとおりでなかなか真実は見えてきません。しかし大いにありうる話だと思います。古くからの「聖地」にそれぞれの時代にあった形の信仰が重ねられるのはよくあることで、そういう意味では、ここが古くからの聖地であったならそこに将門の伝承を結び付けて習合させるのはなんとも阿弥衆らしいやり方と思えます。私見でエビデンスもありませんが、古来の書のなかの一行に過ぎないような記述を面白おかしく一寸法師や浦島太郎などの物語に仕立て上げたのは中世の阿弥衆の仕業に違いない、そう思うのです、世阿弥が能「羽衣」をつくったように。
(この文は日本女性新聞にも掲載・連載されています)
将門塚の碑に彫られる「蓮阿弥陀仏」の字は日輪寺に今でもある遊行二祖・他阿真教の真筆とされる石塔婆の字から採られたものという。碑の中央は南無阿弥陀仏、右上は平将門、右下が蓮阿弥陀仏。左上の徳治二年は揮ごうあるいは石塔婆に彫られた年号。
将門塚のそばには皇居のお堀があり、かつては水質が問題にされたこともあったが今は浄化設備でかなり改善しているという。昔のように川の水を引くことへの要望もあるようだが都市の風格を考えればそれが正解かもしれない。美しい水に石垣、という光景には高い価値がある。
2023年02月18日(土)
江戸の〝霊的骨格〟2 将門塚と阿弥衆(あみしゅう)
将門塚にまつわる歴史では、時衆二祖とされる他阿真教(1237-1319)が注目されます。鎌倉時代、一遍上人の志を継いで時衆を発展させた人ですが、中世の時衆とはすなわち阿弥衆のことで、他阿真教の百五十年ほどあとには何人かの阿弥衆が足利義政の東山文化のにない手となったことはよく知られます。日本の床飾りの文化、生け花や茶の湯、絵画(お軸)や器などは東山文化にはじまる、とされますが、その東山文化のにない手となった阿弥衆はとくに「同朋衆」ともよばれ、その同朋衆の実体については意外と掘り下げた研究が少ないようです。そんななかで近年は剃髪・帯刀をした三人がえがかれた「足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻」が発見され同朋衆の具体的な絵として話題になりました。
時衆=阿弥衆はナームアミダブツを唱えて踊った、ということがもっともよく知られるところでしょう、それは今日の盆踊りの原点と言われますが、長野県佐久市跡部には当時の踊念仏が今でも残っていて国の重要無形民俗文化財に指定されています。その阿弥衆の頂点にたった代々の遊行上人は一ヵ所に定住しないという厳しい掟があったようです。
時衆は○阿弥(○阿とも)というふうに阿弥の名前をつけるのがならわしで、能で有名な世阿弥もまた時衆と考えるべきでしょう。これには異論もあるようですが時衆をどう定義するかの問題でもあり、世阿弥が佐渡で書いた金島書には時衆ならではの文化がみられます。「申す」ことを基本とした猿楽を夢幻能という高い境地に引き上げ、好んでテーマとしたのも「はごろも」や数々の脇能など純粋芸術としての高い境地であったことは、分野こそちがえのちの東山文化の同朋衆に強く共通するものがあります。
宗教教団としての「時宗」が確定するのは藤沢に本山が定着するなどした江戸時代以降とする研究者は多く、ここでは今日的な意味での宗教としての時宗を問題とするのではなく、中世までの不思議な文化を持っていた時衆=阿弥衆に着目するものです。
さて、時衆の祖・一遍のあとをついだ形の他阿真教は北陸や関東などに広く遊行したようです。そのなかにこの将門塚の地があります。
将門塚の地にあった日輪寺はもとは天台宗だったとされますが、他阿真教は将門のタタリに苦しむ人々のために祈とうし将門に「蓮阿弥陀仏」の法号(戒名)を贈ってこれを鎮めた、という歴史が残されます。以来、日輪寺は時衆の道場となり、のちに移転して将門塚の鬼門・北東の方角の浅草駅の近くにあります。ここには他阿真教の真筆から採ったといわれる「蓮阿弥陀仏」の石塔婆が今でもあり、将門塚にある今日の碑もこの文字から採られたということのようです。
他阿真教が将門のタタリを鎮めた「手段」はナームアミダブツという念仏・称名によったと考えるのが自然です。世阿弥も「申す」ことの芸術・能を大成し、いずれも音声を発すること、言いかえれば「言霊」への志向が強くあります。両者はまったく違うことのように感じる方も多いと思いますが、日本において天台密教でサンスクリット語の発音が研究され同じ人の手で浄土教も将来されてそこから時衆をふくむ念仏系の宗派や文化が生まれた過程や、江戸の国学者たちによってヤマト言葉の研究がなされた結果は、「音」の観点からみると不思議な一致をみせ、そこからは従来とはちがう「言霊」への理解が生まれます。このテーマはまた違う機会に譲ろうと思いますが…。
将門塚の地には石室?などの遺跡があったという記述も資料類にはみられます。開発最優先で古いものをよしとしない時代が続いたことは周知のとおりでなかなか真実は見えてきません。しかし大いにありうる話だと思います。古くからの「聖地」にそれぞれの時代にあった形の信仰が重ねられるのはよくあることで、そういう意味では、ここが古くからの聖地であったならそこに将門の伝承を結び付けて習合させるのはなんとも阿弥衆らしいやり方と思えます。私見でエビデンスもありませんが、古来の書のなかの一行に過ぎないような記述を面白おかしく一寸法師や浦島太郎などの物語に仕立て上げたのは中世の阿弥衆の仕業に違いない、そう思うのです、世阿弥が能「羽衣」をつくったように。
将門塚の碑に彫られる「蓮阿弥陀仏」の字は日輪寺に今でもある遊行二祖・他阿真教の真筆とされる石塔婆の字から採られたものという。碑の中央は南無阿弥陀部、右上は平将門、右下が蓮阿弥陀仏。左上の徳治二年は揮ごうあるいは石塔婆に彫られた年号。
門塚のそばには皇居のお堀があり、かつては水質が問題にされたこともあったが今は浄化設備でかなり改善しているという。昔のように川の水を引くことへの要望もあるようだが都市の風格を考えればそれが正解かもしれない。美しい水に石垣、という光景には高い価値がある。
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