華林のブログ
2023年06月26日(月) 華林のブログ世阿弥の夢幻能 と 家康
江戸・東京の霊的構造 その11
― 武蔵の国のなかの〝ヤマト〟
〝アヅマ〟の意味⑦
能を大成したと言われる世阿弥は室町幕府の初期の人、室町幕府の力を盤石なものとした三代将軍足利義満との深いつながりが知られています。
世阿弥は、呪術性のある民間の芸能、申楽・田楽などから発展した能を、さらに純粋で高度な「夢幻能」にまで昇華させていきました。それはおそろしく高邁な、当時にあっては孤高ともよぶべき精神世界で、一部の研究者が言うように多くの人々によく理解されたかにははなはだ疑問が残ります。
世阿弥は最初から夢幻能を創作していたわけではありません。父の観阿弥に教えられながら、徐々に自分の世界を確立していったものと思われます。まだ幼いころには足利義満に可愛がられて世に知られ、長じるにつれて世阿弥が夢幻能の孤高の世界を確立していったことと、足利義満や次の四代義持、五代義教との距離ができついには佐渡に流されるに至ったことは必然の結果だったと思われます。世阿弥が夢幻能の高い境地を開いてゆくと同時に、義満も義持も、義教ではさらに著しく夢幻能とは対極の活劇まがいの能や演劇にのめり込んでゆくのです。つまり、義満や義持、義教の理解を越えた境地に至り、その結果だれかの讒言に従った、あるいは世阿弥をなんだか薄気味悪い存在と感じるようになったなどの複合的な理由があったものかと思われます。たぶん、千利休においても豊臣秀吉とのあいだに似たことが起きて切腹にいたったのでしょう。
義満も秀吉も、ある意味では「俗物」と評されることがあります。〝俗物〟であったからこそ権力を強固なものとすることができたとされる足利義満は世阿弥の夢幻能の世界をよく理解できなかったかもしれませんが、しかし、足利一族は名だたる文化人の系譜です。和歌やアジア古来の哲学、五壇の法など深い密教的な修法にも馴れ親しんでいました。当時にあっては、天下泰平を祈る宗教行事の主導権をにぎることがそのまま権力の象徴であるという側面もつよく、義満が『俗物』であったといっても、今日の尺度からいえばかなりの文化人であっただろうことは付言しておきます。秀吉についても同様です。
ただ、幸いなことに世阿弥の高い境地は後を継ぐ人や一部の武将などにはよく理解されました。でなければ、今日までそれらの演目が数多く受けつがれ、高い評価を受けることはなかったでしょう。背景には、室町時代のなかばごろから、「謡(うたい)」が多くの人々に好まれていったという事情もあります。さらには和歌が日本の歴史において絶対的な存在感を示していたこともあり、いわば、これらは一様に「言霊の文化」なのです。
さて、能をよく理解した武将に徳川家康がいます。かなりの通だったようで、能の本家筋である観世太夫の家が火事にあったとき、太夫は焼失した文書を家康が所持していた書物から写させてもらっています。そして江戸幕府では、能は式楽、つまり公式の演劇となり、重要な節目の行事では、「翁」にはじまる五番の能を、順次位の高いものから演ずることとしました。能の間には短い狂言をはさみ、能=陰、狂言=陽というアジアならではのバランスをみごとに構築したのは、家康の深い見識があったからと思われます。ときに二日がかりの演能は、時代とともに省略化され、それは家康によって復活された世阿弥の高い境地への理解が、ふたたび薄らいでゆく過程とも言えるでしょう。同時に一般民衆には、歌舞伎という活劇のスタイルが好まれていきます。それは、室町時代に世阿弥の夢幻能から、後で現れる音阿弥などが舞台衣装や小道具をふんだんに用いて活劇のような舞台をおこない支持を得て、同時に世阿弥の夢幻能が疎まれていった過程によく似ています。
面白いことに、世阿弥の夢幻能の抽象性を重んじる感性は、江戸時代に入って確立していった建築様式・床の間(書院)を舞台とした芸術に受け継がれる結果となったようです。能では屋根がある六メートル四方に満たないせまい能舞台に最小限の衣裳と小道具、謡の内容によってその場所を都にしたり湖にしたり、舟が漕ぎだす浦としたりします。そこに「神」やさまざまなモノが出現します。つまり、現実界の森羅万象を、「謡の言葉」という最小限の世界に凝縮し、囃子と舞、わずかな小道具を添えることでぎゃくにそのモノの「本質」を表現してしまう、ある意味ではそれこそ芸能の真骨頂かもしれません。
いっぽう、武家や商家において「床の間」の存在が一般化すると、いけ花の世界ではそれまでの「立花」から新たに「なげ入れ」やそれに次いで「生花(せいか)」が生まれますが、その担い手たちは深い素養をもった文化人たちでした。和歌や漢詩の世界を床の間にいけ花で表現し、たとえば明かり窓(障子)のあるほうはテーマによっては「海」側、反対の暗い下座は「陸」や「山」側と見立てました。あるいは江戸以前はあまり見られない竹の二重や三重などの花器を生け、丘や高い山を表現しました。そこに、たとえば西行が和歌によって全国に知らしめた「吉野桜」の光景を蕾、満開、葉桜などを使い分けて生け、吉野の山の高低を表現していったのです。それは西行の和歌そのものの世界でした。
そのような床の間の抽象性は、能舞台のあり方と非常によく似ています。江戸という時代は、初期においては徳川家康の感性によって能の高い芸術性が復活され、後期において市中の文化人たちによって床の間の芸術の高い境地がひらかれたと言うことができるのです。それらは一様に「月の文化」であり、先の号でも述べたように明治維新で一挙に没落しました。
『翁と山松図』絵/華林。「翁」は能の原点とされる曲。橘曙覧の和歌『山家老松―眉白き翁出(い)で来て千とせ経(ふ)る門の山まつ撫でほむるかな』は能「翁」を念頭に置いたものだろう。能舞台には老松が描かれ、橋掛かりには3本の若松の木が高低差により遠近をみせながら立てられる。能は「松の芸能」だ。山松はふつう赤松を意味する。
能の謡本。「謡」は室町時代から流行りだしたと言われる。これは『羽衣』の一頁。大正時代の宝生流のもの。版元は東京。
写真はクリック、タップすると拡大します。
2023年06月14日(水) 華林のブログ
〝アヅマ〟の意味⑥ 柿本人麻呂
江戸・東京の霊的構造 その10
― 武蔵の国のなかの〝ヤマト〟
〈早朝、明石海峡で対岸の淡路島の上空に月をみる〉
ともしびの 明石大門(あかしおほと)の
海の面(おも)に 銀の光の かそ(幽)けくて
淡路(あはぢ)の島に 目を遣(や)れば
下弦の月ゆ 眩(まぶ)しくも
奇(くす)しき光 島へ垂(た)りゆく
〈哥聖と呼ばれし人〉
海底(うみそこ)に 沈みし人は 霊極る(たまきはる)
幾代(いくよ)を経(へ)てか 月と照りける
華林 (二〇一二年季春)
冒頭から拙作で恐縮ですが、私のなかの「柿本人麻呂」はこの歌に尽きます。
柿本人麻呂の代表歌は『ほのほのと 明石の浦の朝霧に 島かくれゆく 舟をしぞ思ふ』とされています。江戸のころにはよく知られた和歌のようで、狂言『舟ふな』にも誰でも知っている歌として登場します。(たぶん遅くとも江戸期にはよく演じられた狂言かと思います)
この柿本人麻呂の代表作とされる和歌は、じつは「伝人麻呂作」で、つまりはっきりと人麻呂の作とされているわけではありません。にもかかわらず、古今の随一の歌聖とされる柿本人麻呂の代表作とされてきました。なんとも不思議な話、なんとも人麻呂らしい話です。
赴任地の石見国(島根県益田市)で没したとされる人麻呂ですが、全国に数多い柿本人麻呂を主祭神とする神社のなかでとくに知られるのはその島根県益田市の高津柿本神社、明石海峡を小高い丘からのぞむ兵庫県明石市人丸町の柿本神社、そして奈良県葛城市柿本の柿本神社などでしょうか。とくに明石市の柿本神社は規模も大きく明石海峡と淡路島を見下ろすロケーションも素晴らしいものです。(今日では日本標準時子午線上にたつ天文科学館の巨大な時計塔が明石海峡のまえに立ちはだかるように建ち、なんだかそれも人麻呂らしい光景です)
柿本人麻呂に対する信仰は、前回とり上げた菅原道真の信仰と多くの共通点があります。古く、和歌・連歌の会では柿本人麻呂の肖像が飾られましたが(人麻呂影供、平安末期~)、のちの時代には天神=菅原道真の肖像が飾られるようになります。菅原道真は漢詩と和歌をよくした人ですが、人麻呂は和歌の神、いずれも韻文で「言霊」の神と言えます。人麻呂が人丸/ヒトマロ・ヒトマルとも呼ばれ、その発音から「火止まる」の意とされて江戸時代に火伏の神としても広く信仰されてゆくのは、人麻呂が「言霊」つまり「発音」の神なので、たんなる語呂合わせではなく「言霊」の本質、つまり言葉の発音が神々と宇宙に働きかけ現実化してゆくという言霊の思想を強く反映しています。「和歌は言霊である」という考え方は日本には一貫して強くあり、和歌の最右翼の神である人麻呂ですから、語呂合わせが信仰の本質となるのは当然の成り行きだったともいえます。
さらに、人麻呂と道真の信仰には決定的な共通点があります。すなわち、いずれもその本地仏とされたのは観音、なかんずく十一面観音でした。前号で書いたように菅原道真が祀られる道明寺天満宮は以前は道明寺と一体となった寺社で、菅原道真自刻とされる十一面観音像が本尊です。明石の柿本神社はそのお隣にある月照寺とかつては同じ一つの寺社で、そのご本尊もまた十一面観音(海上波切船乗十一面観世音菩薩)です。奈良県葛城市柿本の柿本神社の神宮寺としてお隣に創建された柿本山影現寺(ようげんじ)のご本尊もまた平安時代の十一面観音像とされます。
菅原道真=天神も、柿本人麻呂も、いずれも観音信仰とくに十一面観音信仰と習合して強固な信仰になっていったと言えます。淡路島をのぞむ急流の明石海峡に柿本人麻呂の意味深げな〝代表作〟が重ねられ、月の名所としても知られるようになります。そこには十一面観音が祀られ、この十一面観音は「水の神」、つまりは「月の神」でもあります。中世、近世の武家文化において重視された柿本人麻呂、菅原道真の信仰の本質がそんなところからみえてきます。それは日本の床飾りや生け花の、かなりの深層におけるバックボーンでもあるのです。
早朝、明石海峡で対岸の淡路島の上空に月をみる
「哥の聖・人麻呂」絵/華林
上/兵庫県明石市人丸町にある柿本神社。明石海峡と淡路島をのぞむ高台にある。中/柿本神社と隣り合わせの月照寺。人麻呂ゆかりの十一面観音をまつる。下/近くの明石城公園の一画にある「人丸塚」は旧社地。こんもりとした照葉の小さな森。
2023年06月04日(日) 古流の花だより
6月3、4日 石川県華道連盟 百万石まつり「お花寄せ」 金澤神社にて
3名の方が献花しました。
上田理碧、中保理希、成瀬理博
(順不同)
2023年06月01日(木) 古流の花だより
第30回富山県いけ花作家協会展が5月26日~28日に富山大和で開催されました。
出瓶された方々です。(順不同)
大作
渡邉理倭、吉野理白、森沢華穂
澤橋理喜、岡田理喜
北山理光、門島理紀、河原理佳
深松紫濃
中作
清水美夜穂、大郷民穂 宮腰喜久、水元喜睦
高森理世 水野渡月 竹内倭日、田嶌詩賀穂
小作
若林穂月 野上妙葉 堀倭雅 平野美紀穂
吉田倭美 四柳明喜加 永川智穂 関澤倭草
吉本春穂 山田宏穂 山本弘穂 湯浅喜雅
大坪理和 加藤樹恵 長谷川倭友
2023年06月01日(木) 古流の花だより
総合花展(後期)が5月27日~29日に香林坊大和で開催されました。
出瓶された方々です。(順不同)
大作
森川理青
中作
入野月華、東真華
土橋白華、越野順穂
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