華林苑 花日記
2023年09月30日(土) 古流の花だより9月24日~26日、金沢市田井天満宮に献花しました。
2023年09月30日(土)
9月24日~26日、金沢市の田井天満宮の秋祭りに献花しました。
2023年09月30日(土) 古流の花だより
金沢高校の文化祭が9月27、28日に行われました。
2023年09月09日(土) 古流の花だより
令和5年8月27日(日)に東京豊島区古流会館で古流いけばな松盛会展が開催されました。
家元先生も出瓶されました。
家元先生の作品は「華林苑花日記」にあります。
以下、出瓶された方々です。(順不同)
松創会
松井理富美、金指理信、鈴木理京
御園理貴、相良理泰、中島香城
柏葉会
安西理光、柚原理香
森川理青、布川馨花
華遊会
牧野理正、小野田理恵、坂本豊静
椎葉理暁、清水理清、横山悠翠、菊島愁翠
2023年09月05日(火) 華林のブログ
徐福伝説 その一
江戸・東京の霊的構造 その12
― 武蔵の国のなかの〝ヤマト〟
〝アヅマ〟の意味⑧
全国各地にある「徐福(じょふく)伝説」には不思議な存在感があります。そして、評価や好みが大きく分かれるのも徐福伝説の大きな特徴です。徐福伝説の概要は以下のようなものです。
秦の始皇帝に、中国の東方海上の三神山にあるという不老不死の薬を探して持ち帰るように命じられた徐福は、三千人の童男童女を引き連れ船出、何日もかけた大航海の末に日本にたどり着きました。そのたどり着いた地とされるのが九州の福岡県八女市や佐賀県佐賀市、紀伊半島南端の三重県熊野市などにあり、ほかにも鹿児島県出水市や宮崎県延岡市など、それぞれの地に徐福伝説は残されています。また朝鮮半島に立ち寄ったという伝説もあり、韓国の済州島などにも徐福伝説は伝わります。
徐福が中国を出航したのは中国大陸ではじめて統一王朝をつくった秦の始皇帝の時代、紀元前二一〇年とされ、中国の歴史書「史記」にこの伝説のもととなる記載があります。つまり徐福伝説は日本においては有史以前、あるいは文献上はっきりと確認できない時代のことなのです。
徐福は〝方士〟とされます。『方』は『五行』とほぼ同じと考えてよく、後世の陰陽師や陰陽博士を思い浮かべてみるといいかもしれません。陰陽師では平安時代の安倍晴明の名前がよく知られますが、「方士」のイメージはむしろ空海や天海などの密教僧が行ったことに近いように思われます。
日本の秀でた密教僧などがインド発祥の仏教の哲学と同時に中国古来の五行的な素養をよく身につけていた、あるいは深い理解をしていたことが分かる例は、曼荼羅の前の造花の色の配置、仏教の『五大(五輪)』の日本における独創的な解釈、七福神への五行的な属性の配当などいくらもみられます。それらは五行の観点からみると明快な理論となっており、古代インド哲学と古代の中国の哲学をより高い次元で理解し、それらの本当の意味をはじめて理解したのが日本の密教僧などであったというのが正確なところなのでしょう。
江戸時代までは祈祷や薬草を配るなどして民衆に人気が高かった山伏たちのなかには、このような密教的・陰陽五行的な知識を身につけていた人がある程度いたようで、彼らはときに市中の『博士(陰陽博士)』と呼ばれていました。江戸時代中~後期に幕府の政策によって家元制度が確立したころ、安倍晴明の流れをくむ土御門家が陰陽道の家元と認定され全国の『博士』たちを配下に置こうとしますが、ほとんど実効性がなかったと言われます。もともと、土御門家=安倍晴明の流れをくむ陰陽道と密教などにみられる陰陽五行的な思考には大きな隔たりがあったと思われ、漫画などでも知られるように安倍晴明などの陰陽師では攻撃的な性格が強く、真言・天台などの密教系においては国家安泰を祈るような志向性が強かったものと思われます。安倍晴明の祖は天智天皇の時代に遡ることができそうで、日本で力を持つようになった原点はどうも天智天皇前夜の激動の時代にあるようです。
紀伊半島南端の三重県熊野市の徐福伝説では、古来の強烈な熊野信仰の中軸である熊野川の河口という印象的な場所に鎮座する古社・阿須賀(あすか)神社がその舞台となっています。さらにそこから北北東へ直線距離で25キロの波田須町=ハダスチョウは海(熊野灘)に面したかなり急勾配の場所にある集落です。斜面のせいで上方の集落の入り口から全貌は見わたしやすく、その不思議な雰囲気に驚かされます。そこの小高い一隅に徐福宮が祀られています。
この徐福宮は明治時代の終りごろには近くの神社に合祀されたようですが、戦後は無事ここへ戻っています。さらに驚くべきことに、ここでは中国の秦の半両銭が発掘されており、徐福〝本人〟であるかは別として、秦の流れをくむ人たちが生活していた可能性は非常に高いと言わざるをえないでしょう。そしてここからさらに富士山ろくへと徐福は出航したと伝えられ、富士山麓にも徐福伝説は色濃く残されています。
徐福は『秦徐福』ともよばれ、もちろんそれは秦帝国の「秦」に由来するものでしょう。秦はハタとも訓まれ、秦氏は古代の日本で強い影響力を持っていたと言われます。聖徳太子のお手伝いをしたことで知られ、世阿弥が能の精神的な始祖とした秦河勝(はたのかわかつ)、その名も『太秦(うずまさ=太は最高級の美称)』の地にありファンの多い「弥勒菩薩半跏像」で知られる広隆寺など秦氏や秦河勝とかかわりが強い古代の文化は数多くあり、養蚕や機織り、鉱石の採掘や鍛冶、酒造など広い分野の技術を日本で広めたとされます。
紀元前三世紀の徐福伝説と聖徳太子・秦河勝の六世紀では大きな時間の隔たりがあります。ただ、古代の聖徳太子の時代の秦氏が、漢でも他の名前でもない、『秦』という字を冠していることは様々なことを想起させます。今日ではその意味が分かりにくくなったケースが多いとはいえ、氏族の名前はその奉ずる神や文化を標榜するものだったからです。
徐福伝説とかかわりの深い文化は以降の歴史に複数の点として一見して脈絡がないかのようにあらわれ、それらは一様に強い個性を持っています。それは平家の落人にどこか似ていますが、平家の落人よりはるかに印象的な、もの言いたげなものです。そしてその担い手の一つの系譜が、南北朝合一以降の後南朝の流れをくむ人たちのようです。
中国から「東方へ」をキーワードとして日本にたどり着き、日本での伝説をたどれば九州から熊野、そして富士山ろくというように「東方へ」移動した〝徐福〟の動きは、古代仏教の東方に理想的な国がある、という思想ともどこか関連しているように思われます。
古来の強烈な熊野信仰の中軸である熊野川の河口という印象的な場所に鎮座する古社・阿須賀(あすか)神社。ここにも徐福伝説は残る。神社の後ろの山は『蓬莱山』と名付けられ古代中国を彷彿とさせる。和歌山県新宮市阿須賀。
波田須(ハダス)の集落は海(熊野灘)に面したかなり急勾配の場所にある。ここからは中国・秦の〝半両銭〟が発掘されており、秦にかかわる文化を奉じた人が住んだことは間違いないだろう。波田須=ハダスの名前もハタからきていると言われる。三重県熊野市波田須町。阿須賀神社から北北東へ直線距離で25キロくらいの場所にある。
波田須の集落の一隅でいまでも手厚く祀られる徐福宮。
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2023年09月05日(火) 華林苑 花日記
墨絵(軸)/三本足の烏(からす) 華/彩流華 剱の華・椿一色 器/舟形の陶器 いずれも華林作(器は意匠)
古来の強い信仰、文化の地・紀伊半島の熊野。その象徴として登場するのが「三本足のカラス」。有名な熊野三山の熊野牛王神符にも『カラス文字』として登場、また日本のサッカーチームのエンブレムにもなりました。
熊野は日本の床の間の伝統文化の一つの起点である中世・東山文化の担い手『同朋衆』(阿弥衆)の原点でもあります。その絵に、アジア古来の哲学にそった渦を表現する生け花『彩流華』を生けています。
8月27日 古流会館(豊島区駒込)にて 古流・廣岡理樹(=華林)として出品
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