華林のブログ
2024年01月25日(木) 古流の花だより北國花展より 後期分(1月25日~28日) 金沢エムザにて開催されました。
出瓶された方々です。順不同。
現代自由花・ボックス作
森川理青、入野月華
現代自由花・台作
東真華、土橋白華
伝統様式花
織田由穂、田中理紅
中村碧翠、越野順穂、小林理啓
2024年01月22日(月) 古流の花だより
北國花展より 前期分(1月20日~23日) 金沢エムザにて開催されました。
家元先生も北國芸術賞受賞大作で出瓶されました。
作品は、華林苑 花日記の方でご覧ください。
以下、出瓶された方々です。順不同。
特別大作
奥田理和
現代自由花・ボックス作
上田理碧、山崎理惠
現代自由花・台作
𠮷田理玲、髙木恭穂
伝統様式花
能木場理紀、干場成樹
2024年01月20日(土) 華林のブログ
増上寺と芝丸山古墳
江戸・東京の霊的構造 その15
― 武蔵の国のなかの〝ヤマト〟
連載の初期に書いた上野・不忍池の弁天堂は寛永寺の一部ですが、この上野の寛永寺と芝の増上寺は江戸城の鬼門と裏鬼門にあたります。鬼門=東北と裏鬼門=西南は武家社会においては非常に重視され、お城の鬼門・裏鬼門の方角に重要な寺社を置く例は多くみられます。それらの寺社でマツリゴトをおこない、お城とその城下町の安泰を祈ったのです。
江戸城の東北=鬼門につくられた上野の寛永寺は初期の江戸幕府の霊的な仕組みをつくりあげる中心となった天台宗の僧・天海がつくったものです。いっぽう、芝の増上寺は浄土宗のお寺で、歴代の将軍のうち六人の墓所があるなど寛永寺に劣らない強い存在感があります。増上寺は、明治維新や戦災で非常に大きな打撃を受けかなり縮小してしまいますが、今日では増上寺と一体となった芝公園全体よりもさらに広い境内地だったようで、東京プリンスホテルや港区役所、東京タワーの一部なども含む実に広大なものです。今日でもこの広い空間のすぐ後ろに東京タワーや日本一の高層ビルと話題になった麻生台ヒルズがみえ、それらとマッチしながら東京随一と言ってよいほどの風格や清冽かつ癒しの雰囲気があります。
増上寺は中世のころから浄土宗のお寺だったとされますが、そのころから松平=徳川家との深い関係があったようです。徳川家康の先祖やときには家康自身も「阿弥衆」だったと言われることがありますが、つまり念仏・称名=ナムアミダブツを唱える文化・宗教と松平/徳川家は深い関係があったと考えられます。同じ称名の宗派、浄土宗を徳川家康が重用したことは自然のなりゆきだったかもしれません。称名、つまり声にだして唱えるということの意味を、家康は深く理解していたと思われます。そのことは、同じく声に出す、つまり「申す」ことの芸道「能」を非常に重んじたことからも推測できます。
阿弥衆を重用するのは中世以来の武家の伝統ともいえ、室町幕府の足利将軍家も阿弥衆を重用し、とくに八代将軍足利義政の時代のそれが今日の床飾りや生花(せいか)などの武家系のいけばなの原点となったことはよく知られますが、徳川家康は往年の足利将軍の事跡に対しても深い敬意の念を以って処しています。
つまり、家康においてはたんに何かの宗派を信じていた、ということではなく、芸道も含めた宗教・文化の深層の部分での本質をわきまえていた、と考えるべきでしょう。かなり重要な霊的な部分を天台僧・天海に委ねながら、いっぽうで浄土宗の増上寺にたいしても破格の扱いをします。
家康は慶長三年一五九八年に日比谷にあった増上寺を現在地の芝に移しています。家康流の思考にしたがって現代風に言いかえれば、ナムアミダブツの称名、つまり『ナムアミダブツ』という言霊の力によって江戸城の裏鬼門を霊的に強化しようとしたのです。そこには、家康のこのお寺に対する深い信頼を読み取ることもできるでしょう。
思えば、密教の複雑な呪などを駆使し五行的な論理もまじえながら仏法としてのマツリゴトをおこなった平安時代初期の円仁は、徳川家康のブレーンであった天海の天台宗の大先達ですが、じつは日本へ浄土教つまり「ナムアミダブツ」を将来したのも円仁です。そして円仁がひらいた比叡山横川で修行して下山、浄土宗をひらいた法然は、死にさいして円仁の袈裟をまとったといわれるほど円仁に私淑していたとされます。(法然は円仁より三百年くらい後の時代の人です) 家康にすれば、「宗派」の違いよりも両者に共通する根底の哲学に目が向いていたのでしょう。そして家康は、僧侶などのマツリゴトの才能や『法力』を見分ける天才だったように思われます。
さて、この芝公園の一画には芝丸山古墳があります。ここもまたかつては増上寺の一部だったでしょうか。四世紀後半または五世紀中葉過ぎの築造とされる前方後円墳のようですが、前方後円墳は通常は前方の方形の部分で祭祀をおこない、後方の円形部分が埋葬部になっていたとされます。この古墳では円形部分が江戸時代にはすでに頂上部が崩されていて埋葬施設も破壊されていたようですが、祭祀が行われていた雰囲気は今日でも色濃く残っています。隣接したこの地に家康の命によって増上寺が移転され、江戸城の裏鬼門の鎮守とされた大きな理由は、古墳のあるこの地の不思議な雰囲気、「地の力」も預かっていた可能性は高いでしょう。
江戸時代なかばの『江戸名勝志』には、増上寺は四十を超える坊中寺院のほか山門や釣鐘などを擁する膨大なお寺として絵入りで破格の扱いを受けて紹介されており、突出した存在感です。古墳のうえでおこなわれたマツリゴトは、増上寺の多くの寺院で響きわたるナムアミダブツの声と千年以上のときを超えて重なり合っていたかもしれません。
万葉集にも、日本は「言霊の幸わう国」とあります。仏教が渡来する以前の、万葉集の時代にまだ名残りがあっただろう古いヤマトの言霊とは具体的にどのようなものだったのでしょうか、本居宣長をはじめとする江戸期の国学者たちもまた、そのことに想いをはせたのでした。
増上寺の背後には東京タワーや麻生台ヒルズがそびえる。右下が増上寺。
芝丸山古墳の頂上部。一帯は不思議な雰囲気があり都心とは思えない魅力的な場所だ。
『江府(江戸)名勝志』(江戸中期、華林苑蔵)より。『寺院略記部』ではおびただしい数の寺院名が地域ごとに列挙され、芝の三縁山増上寺の項では絵がそえられ、本尊や四十を超える坊中寺院の名前、山門や釣鐘などについてこと細かな説明が添えられ、別格の存在であったことが知られる。
2024年01月19日(金) 華林苑 花日記
復興への祈り 〝縄文女神と縄文男神の復活〟
金沢エムザで開催中の北國花展より ←終了しました
華と絵など/華林=廣岡理樹として出品
中央/ 彩流華 剱の華・椿一色 銅薄端
左/ 彩流華 月の華・巳型 椿一色 陶壺
右/ 彩流華 日の華・巳型 松一色 銅鉢(火鉢)
絵「縄文女神」「縄文男神」:華 林(各額の幅は80㎝ていど) 額装:永嶋明
壺とライトのインスタレーション
… 能登半島地震 慰霊と復興への祈り …
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