古流の花だより
2024年05月24日(金) 華林のブログ江戸の生け花と「武家文化」 … 立花 と なげ入れ、生花(せいか)
江戸・東京の霊的構造 その18
ーー武蔵の国の中の〝ヤマト〟
江戸時代の生け花の大まかな流れを見ますと、江戸の初頭には「立花」がおおきな流行をみせます。立花は室町時代の終りごろから江戸時代初期に大きく流行し、さまざまな図や本が残されます。実際に数多く生けられた時期は江戸幕府成立の前後かと思われますが、当時の後水尾院(天皇)の立花好きはよく知られます。仙洞御所などで上層の人々の文化交流の場〝宮廷サロン〟が持たれ、後水尾院が有力大名などに立花図の巻物をあたえたものなども今日に残っています。後水尾天皇は非常に多くの和歌を残したことでも知られ、多くの文化人たち、身分としては公家や武家、僧侶などがこのサロンに集いました。立花の隆盛はこの院の立花好きが影響したものと思われます。江戸幕府が禁裏や公家の権威を上まわることが示されるような事件の数々が起きるなかで、幕府や有力大名から資金援助を引き出しながらサロンをくり広げ影響力を強めた院の政治的手腕に注目されることもあります。
このような流れのなかで成立・成熟したともいえる立花ですから、京都の公家文化という性格を感じる人は多いかもしれません。
じつはこの後水尾院の〝サロン〟のおよそ百五十年まえ、十五世紀の終りごろに、同じ京都では室町幕府八代将軍足利義政の〝サロン〟があったことはよく知られます。こちらは東山文化とも呼ばれますが、今日の銀閣寺の地、東山殿では、その会所(現在はない)と呼ばれる建物を中心に〝サロン〟が開催され、公家や僧侶、大名・武家など多くの人々が集う社交場でもありました。そして会所のなかだけでは『身分の差は問われずに』連歌や闘茶をはじめとした数々の文化の交流がなされた、とされます。
「武家文化」と、その対極とすべき文化、ここでは「公家文化」ととりあえず呼びますが、両者の対比は、この【室町幕府の東山文化】と【後水尾院の宮廷サロン文化】に一つの典型をみることができそうです。
ただ、前もってお断りしておきますが、文化は複雑に絡み合っており、本質は深い場所に隠されている場合が多くみられます。単純にこの宮廷サロン文化(後水尾院の寛永文化)のすべてが「公家文化」と呼ぶことはできません。「公家文化」と呼ぶときは、時代や担い手によってその本質はかなり違っており、誤解を生むことが多くなるでしょう。本質の部分で武家文化、公家文化と対比して呼べるのは南北朝合一以降のことで、それ以前には公家や天皇家のなかにも武家文化的な要素はみられますし、「武家」は『武力』を象徴するものというとらえ方がむしろ近くなってくるかもしれません。江戸時代の武家文化では鎌倉幕府ではなく足利将軍の室町時代を理想とすることが圧倒的に多い理由の一つはここにあるでしょう。あるいは、江戸の社会で平安時代に左遷されて憤死した菅原道真や平将門を高く評価して祀るのも、そこに「武家文化」の原形をみいだしたからにほかなりません。
応仁の乱前後の、落ちぶれたとはいえ室町幕府の政治の中心地、東山殿の会所に多くの人たちが顔を合わせる場所があり、日本の主要メンバーの多くが集っていたことは驚くべきことかもしれません。そしてその会所に飾る軸や器その他の美術品を選定し、床飾りや作庭も含めて会所の文化をリードし黒子となって足利義政を助けて運営していたのが『同朋衆』たちでした。
同朋衆たちは「阿弥衆」や「時衆」とも呼ばれます。阿弥衆はより一般的な呼び名で、当時、ナムアミダブツを唱えながら踊念仏をしたという、独自の強いネットワークを持つ人々でした。日本のかなり広い地域にネットワークをもち、なによりも独自の文化や哲学を持っていたことで知られます。そして多くの分野で独特のスタンスから社会を支えていたということもできます。
今日の日本の伝統文化のひとつの出発点ともいえるこの東山文化、室町八代将軍足利義政を中心に同朋衆たちが担い手となった東山文化のなかにも生け花はあったようです。
この東山文化での生け花を、近年では「古立花」や「阿弥系の花」と呼んだりしているようですが、「阿弥系の花」という名前はもちろん、同朋衆が『○阿弥』といった法号を名のっていた人々だったことからきています。名前がはっきりと残っているのが相阿弥や芸阿弥などの人々です。阿弥衆と室町将軍の関係は義政以前からみられますが、強い個性を持つ文化として開花したのがこの時代でした。この時代では僧形でありながらも帯刀している!という独自の姿で、徐々にその実像が分かり始めているようです。『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』には三人の同朋衆の姿がえがかれており、貴重な資料となっています。もっとも同絵巻は十六世紀なかばごろにえがかれたもののようで、東山文化からは半世紀前後あとのもの、またここに描かれる将軍は義政よりも前の四代足利義持と考えられているようです。それらのことを考慮したうえでの史料と考えなければならないでしょう。
この十五世紀後半の東山殿における同朋衆の文化を伝えるものに、十五世紀のおわりごろから十六世紀のはじめに記されたとされる「君台観左右帳記」などの書があります。今日の床の間や書院造などを中心とした日本文化の出発点として貴重な本ですが、生け花にかんしては具体的な図はなく、またこの書もじっさいには筆写によって伝えられたものであり、時代ごとに加筆や修正がおこなわれた可能性も常に頭に入れておかなければならないでしょう。
この君台観左右帳記の少し後の時代の史料には、まるで今日の写真のように鮮やかな彩色で残される床飾りの図などもありますが、それらは君台観左右帳記などの図をもとに描いた可能性が高いと思われます。複数が残されていますが、絵によってはたとえば花と灯明の高さの関係がまるで違っていたりします。平面図を参考にして立面の絵を描いた、あるいは再現したのでしょうか、ときに現実的ではないと感じられる点もあり、それらが大仰に巻物などとして残されるのは少し奇異な印象も受けますが、じっさいには日本の伝統文化のなかにはこのようなケースが非常に多いと考えなければなりません。
ぎゃくにいえば、室町時代の終りごろから江戸時代にかけて、室町八代将軍足利義政の同朋衆による文化が、謎に包まれながらも、神格化という表現がむしろ適切と感じられるほどに理想の文化とされていたことが分かります。
これらの書にある床飾りの図が抽象的で分かりにくいものである理由は、秘伝・一子相伝とされたゆえにあえて分かりやすい克明な資料として残さなかったのか、あるいはこれらの書を記した人たちが実際にその文化を継承した中心人物ではなくてその周辺の人たちであったか、などが考えられます。また室町幕府のこの後の歴史、つまり激しい戦国時代に突入したことを考えれば、この東山殿での文化が具体的にどこかで継続したということはむしろ考えにくく、短期間で消え、憶測のような記憶として残っただけとしても何の不思議もないでしょう。
ここまでにみてきたように、江戸初期の後水尾院のもとで開花したともいえる「立花」と、室町時代の東山文化の「謎の阿弥系の花」には性格的にも大きな違いがあります。立花がサロンでの花会などの場で絢爛を競い合ったことはよく知られますが、いっぽう、謎の阿弥系の花は床の間(作り付けか置き床かなど諸説ある)を舞台としておそらく軸の内容とも連動した哲学的・内省的なものでした。
江戸時代も半ばになると、華美な立花を批判して「なげ入れ」や「生花」が床の間を主な舞台として登場しますが、それらは東山文化を理想として追い求めます。東山文化の謎の阿弥系の花を、哲学や美意識、和歌の伝統をからめて追い求めたのが江戸の生け花人たちだったと言えます。
それは文化の歴史的な回帰でもあり、同時に、唐物主体の東山文化から日本の軸や竹花器などもふんだんに登場する「ヤマトの文化」への脱皮でもあり、まさに遣唐使の廃止以降の平安時代の国風化の時代を想いおこさせます。また、東山文化では上層の人々の文化であったものが、市民とよべるような一般の文化人の手にその主体が移ったことも特筆すべきでしょう。そして忘れなれないのが、背景には「国学」の隆盛があり、霊的には非常に大きなうねりがあった時代といえるでしょう。
立花の名手、大住院以信(一六〇五~一六九六)の作品の巻物の一部。華林苑蔵。以信は京都本能寺の塔頭高俊院四世、二代池坊専好に師事したとされ、名人と称される。江戸で人々に立花を教え京都にもどるが、池坊派から異端視されてまた江戸にもどったとされているようだ。号は日甫。巻物には延宝六年(一六七八戊午歳)の日付があり、以信および門弟の作品集。板行は四条坊門遍(京都)、柏屋藤九郎とある。以信の作品集はほかにも複数残っているようで、出版元にすれば〝売れ筋〟だったのだろう。それがさらに以信を有名にしたのかもしれない。
「なげ入れ」の図二点/『抛入岸之波』江戸中期・元文年間(一七三六~一七四一)釣雪野叟)より、作品図二点。唐物の舟に生けたカキツバタの図には漢詩が添えられ、二重の竹にはオモダカとカキツバタ、和歌が添えられる。和風、ヤマトの文化へと回帰する過渡期にみえる。生け花に漢詩、和歌をそえる文化的な重層性は、立花の時代にはなかった。床の間が定着したことが大きいだろう。本は華林苑蔵。この「なげ入れ」様式のあとで「生花(せいか)」の様式が生まれる。
2024年05月23日(木) 華林苑 花日記
金沢市で開催中の花展より
5月28日まで 香林坊大和 石川県いけ花文化協会展 廣岡理樹として出瓶
華林作の青銅造形と抽象書軸に
アスナロの彩流華・風の華、2華
彩流華巳型・椿とナツハゼ
彩流華巳型・赤松
金神(ミロク)面/青銅 = 華林(廣岡理樹)
軸『円相-風』 = 華林(廣岡理樹) 軸装と裂(復元加賀梅染) = 永嶋明
2024年05月03日(金) 古流の花だより
5月3日~5日 KAN九谷焼美術館五彩館 浅蔵五十吉記念館 能美市 にて華の花展が開催されました。
出瓶された方々です。
浅倉理喜、東森理久
渡辺理仙、杉田紫洋、山田佳春
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