華林苑 花日記
2024年10月27日(日) 古流の花だより10月11~15日に九谷と花,選抜出合い展が開催されました。
石川県小松市サイエンスヒルズこまつを会場に華やかに行われました。
出瓶された方々です。
奥田理和
浅倉理喜、山崎理惠
吉田理玲、久保理静
2024年10月19日(土) 華林のブログ
江戸の生け花⑸ 「出生」という哲学
江戸・東京の霊的構造 その22 ーー
武蔵の国の中の〝ヤマト〟
「生け花」という日本独自の芸術は江戸時代前夜から「立花」として忽然とあらわれ、江戸時代に入ってさらに多彩な展開をとげました。確立したばかりの「床の間」という舞台に掛け軸とともに発展したその新たな生け花の担い手は、深い素養をもつ文化人たちでした。
それをうかがわせるのが、ちょうどその頃さかんになった出版文化です。特殊な例をのぞき手書きで書写され伝承されていたそれまでの和歌や有職故実、陰陽五行などの伝統的な文化や哲学でしたが、ここへきて新たな文化は急速な余裕ある市民層の広がりにともなって出版物という形で多くの人の目にふれるものとなりました。政治的な安定により土地・水利などの改良、農業・産業の発展、市場経済の成長は人々に豊かな生活をもたらしたのです。
江戸時代に入って「立花」の出版物は実に多くの点数があったようです。前に掲載した大住院以信の作品集などもありますがほとんどが独習書という性格のもので、著者名もありません。初期は後水尾院を中心としたサロンで上層階級に広まった「立花」でしたが、その後元禄時代など市民層が台頭して以降の「立花」の実態をかいま見ることができます。
さて、立花はその豪華な美しさで多くの人々の関心をひき、加熱したブームがおきたこともあるようです。いっぽう、「立花」のあとで生まれた「なげ入れ」や「生花(せいか)」は床の間を主な舞台として発展し、そこは内省的な空間なので立花とはいくぶん違う趣で発展したようです。床の間という抽象性にとんだ空間に、長い文化伝統にもとづく掛け軸とともに飾るということが、多くの総合的な文化や哲学を内包する方向へと向かわせたものでしょう。
陰陽や天地人などの哲学もよく知られますが、新たな生け花の担い手となった文化人たちのあいだで取り沙汰された考え方の一つに『出生』があります。「しゅっしょう」とよみますが、「個性」というよりはやや深い意味で用いられたようです。
上の図は「なげ入れ」の書『挿花直枝芳』(入江玉蟾選、明和六年一七六八)の奥付がある板行本の「春」の部の一頁です。
この絵はカタカゴつまりカタクリの花で、万葉集の大伴家持の歌に「堅香子」として登場するのは良く知られます。絵にそえられている二首のうち右の和歌「もののふの八十(やそ)をとめらが汲くみまがふ寺井の上のかたかごの花」がそれです。絵のタイトルと説明の部分には、カタクリの漢名や異称をあげています。カタクリの絵は残念ながら必ずしも忠実に写生したものとは言い難い点があります。ただ、一つの茎に二枚の葉が付いているのが『出生』なので、二花を生けて葉の総数が四枚であることも許される、と説明している点は注目されます。
器が「陰」なので、そこに挿す花や枝・葉の総数は「陽」数字、つまり奇数でなければならない、という哲学と整合性がないため、ここではあえて付記しているわけです。(ただし、「二」は古い哲学では奇数とも偶数ともとるので、生け花の数字では二は許される)逆にいえば、花や枝・葉数は陽数字=奇数でなければならない、という考え方はその時代にはよく知られていた、ということも窺えます。奇数偶数の哲学を優先するか、出生を優先するか、確かに難しい問題です。二枚一組を一つと考え、ここでは四葉ではなく二組と考えた、ともいえます。また、「二」を偶数とも奇数ともとるという哲学も定着していたようですが、その理由も気になります。
下の図は、江戸中期、元文年間(一七三六~四一)の「なげ入れ」の書『抛入岸之波』(釣雪野叟)のなかの図。漢文調の題をつけ、「砂鉢」様の花器の上に小さな瓶をならべ、さまざまな秋草をならべています。そえられる和歌は『みどりなるひとつ草とぞ春はみし秋はいろいろの花にそありける』(春は同じ緑色の芽で一種類の草のようにみえていたが、秋になって成長して花が咲いたらいろいろの草が入り混じっていて美しい/古今和歌集)で、これが「秋は千草八千草」という日本の伝統的な美意識となり、以降、多くの本歌取りの和歌が詠まれてゆきます。
これも一種の「出生」の考え方で、それが江戸時代後期の「生花」に受け継がれたときは、ふつうは一瓶に一種類の植物しか生けないにもかかわらず、秋草だけは混ぜて生けてもよい、という考え方が生まれます。しかも七種を生けるときは山上憶良の万葉集にある歌「秋の野に咲たる花を指折りかき数ふれば七種(ななくさ)の花―萩の花尾花(をばな)葛花(くずはな)瞿麦(なでしこ)の花姫部志(をみなえし)また藤袴(ふぢはかま)朝貌(あさがほ)の花」にある七草しか生けない、という決まりが生まれたり、和歌の伝統が如何に重いものであったかが分かります。(写真)
このように江戸時代の生け花は、当初は京都や上方の上層階級の「立花」としてはじまり、元禄時代前後には新興の市民層にも広がり、さらに「なげ入れ」そして「生花」がうまれ、同時に上方だけでなく江戸にもそれらは爆発的に広がっていきました。床の間を主な舞台とした「なげ入れ」と「生花」の担い手たちは深い素養をもった人たちで、和歌を中心とした日本の深い伝統と密接にかかわっていました。それは、ビジュアルに突出していった「立花」とは大きく違う性格のものだったといえます。
この後、幕末維新の動乱のなかで生け花は大きく衰退してゆきます。実質的に復活しだすのは何時のころなのでしょうか、その後の生け花は徐々に変質し、建築様式の変化とも相まって、またいわゆる嫁入り修行の資格として内容を極端に簡略化してアピールしながら圧倒的に人口を伸ばしました。そんな時代も終わり、今、生け花は再度生まれ変わろうとしているようにみえます。
この連載のテーマ「江戸・東京の霊的構造」という視点では、明治維新によってその構造が一大転換を遂げたということになります。東京における神仏分離・廃仏毀釈の嵐は、上記の江戸のさまざまな伝統を一挙に破壊しました。ただ、それでも〝江戸〟は今日の東京に根強く残っているのを感じることは多々あります。明治以降の文化の本質を語ることも重要でしょうが、それに代えて、次回からは違う視点から〝ヤマト〟の文化の本質を考えたいと思います。
江戸中期の「なげ入れ」の書『挿花直枝芳』(入江玉蟾選、明和六年一七六八)の奥付がある板行本の「春」の部の一頁。カタクリの生け花に万葉集の大伴家持の歌がそえられる。「出生」について言及している。華林苑蔵。
江戸中期、元文年間(一七三六~四一)の「なげ入れ」の書『抛入岸之波』(釣雪野叟)のなかの図。(華林苑蔵)さまざまな秋草を小瓶にならべ挿す。「秋は千草八千草」という伝統的な美意識を生けている。
江戸中期~後期にはさまざまな「生花」の流派が生まれる。写真はその伝統にそって生けられた秋草七種の生け方。山上憶良の万葉集にある和歌にそって生けられる。ここに生けられる七草の種類は本文中にあるものと同じだが、朝貌は今日の桔梗のことと言われる。藤袴も厳密には比定しにくいかもしれない。萩、葛は水揚げが極端に困難だ。昭和初期ころ、廣岡理創(古流)の作品。
2024年10月09日(水) 古流の花だより
10月5、6日に足立区文化祭いけばな展がシアター1010ギャラリー(マルイ北千住)にて
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