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彩流華 華林苑

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華林苑 花日記


 

2026年03月09日(月) 華林のブログ

江戸の霊的文化と天海 その4 イザナミ神!を祀る

江戸・東京の霊的構造㉙ -武蔵の国の中の〝ヤマト〟-

  江戸の文化が京都・大坂などの「上方」から下ってきて花開いたその前に、前回にもみたように、江戸西北の近隣の地、現在の埼玉県の川越から〝霊的な〟文化が移ってきたことは見逃せません。そこには、江戸初期に幕府に大きな影響をあたえた僧・天海の足跡がありました。
  天海は江戸で数々の偉業を成しとげるまえは川越の喜多院にありました。晩年の徳川家康との運命的な出会い、そして家康の大きな信任をえて帰依されて以降、二代将軍秀忠、そしてとくに三代家光に深く帰依され、天海の哲学は幕府の政策に強く投影されることとなりました。
  幕府だけでなく諸大名や多くの寺社も天海から直接に影響を受けた場面も多かったように思われます。天海に起因するといわれる「七福神」には多様な宗派の寺社が名を連ねています。そこには天海の破格の力量といったものがかいまみられます。室町時代の東山文化に端をはっして織田信長をはじめ多くの武家に強い影響力を持つに至った茶道が、その影響力のゆえに結局は千利休や古田織部が切腹させられるに至ったような、悲劇的な政治との関係は天海においてはみられませんでした。
  その天海が川越から江戸へ持ち込んだ霊的文化の代表的なものが「日枝神社」です。現在、赤坂のちかく、永田町にある「山王日枝神社」は川越の日枝神社から勧請されたものです。日本の政治の中枢の地のすぐ近くにある巨大な神社で、政治家はよくここで出陣式をしたりしています。そして皇居も同じエリアです。低地から浮かび上がったような台地状の地形の一隅となっています。
  この日枝神社(山王日枝神社)は、今日では『皇城の鎮』をうたっています。つまり皇居の守護です。かつては江戸城の守護、つまり徳川幕府の中枢を鎮護する神社であったわけですが、現在は皇室の鎮護となっています。(天海は江戸城内に日枝神社を勧請し、のちに近隣の一か所を経由して現在地に落ちついています。)
  もちろんその間、明治の神仏分離をへています。江戸時代までは天台密教と混然一体となった山岳修験色の濃い日枝神社でしたが、神仏分離で大きく変質した一面があることは念頭に置いておかなければいけません。
  歴史をみると、日枝神社/日吉神社(両者は同じ神社を指しており、場所によってどちらかの名前で呼ばれます)については時代ごとにさまざまに異なった説明がなされています。ご祭神についても、その他の文化についても、です。さすがに平安時代の当初から千年以上のあいだ真言宗/両部神道とならんで皇室/国家の鎮護をになう中心的な神社だったのだという思いを強くさせられます。つまり、時代の権力との関係や諸事情によって、微妙にその表現を変えているのです。いや場合によっては、微妙にどころではない、大きく変化させています。
  明治の神仏分離、廃仏毀釈の時代では、古くからの神社の名称やご祭神の変更などは激しくおこなわれました。よく知られた有名な神社ではなかなかそうもいかなかったようですが、それでも変化はみられます。それ以外ではかなりの変更があった例は多数にのぼります。古くから中心的な権力とつねに向き合ってきた日枝神社(日吉神社)では、古くから複雑な事情でご祭神などにかんする説明や解釈がゆれ動いてきたものと思われます。その複雑さは他に類を見ないものです。
  日枝神社には特有の形をした山王鳥居があります。普通の鳥居の上に三角形の造型がのっています。歴史的にはこれは大和の三輪山を表現している、という説明がみられます。三輪山は古事記日本書紀や万葉集に夥しい頻度で登場する神社・山で、古代の歴代の天皇が非常に恐れ、またご祭神の子孫をさがして祭祀をさせたら疫病が止まった、という印象的な記述があります。万葉集でも多数登場し、おそろしく存在感のある山/神社だったようです。
  国家鎮護にあたる寺社が、この三輪信仰の系譜を引き継いでいると考えることに無理はないように思われます。日枝/日吉神社の歴史につねに三輪山の神、大物主神の影がみられるのは興味ぶかいところです。そして、なぜか複雑な様相をみせるご祭神名群のなかに、ここ永田町の山王日枝神社では「イザナミ神」が中心的な一柱として加えられています。
  歴史的な山王日枝神社のご祭神名のなかで、この神名は非常に奇異に見えます。明治時代につけ加えられたとは考えにくく、天海の非常に深い知識やインスピレーションによると考えるのが自然でしょう。
  日枝/日吉神社は古い時代から全国に展開されていますが、なかでも特徴的なのは、つねに前面に出されながらもその神格が民俗学的には今一つすっきりと説明しきれない大山咋神(おおやまくいのかみ)の〝神格〟や、古い日枝神社ではとくに白山神社(宮)がならんで造営されていることなどがあります。川越の日枝神社でも白山宮が隣接してあります。そんななかで天海がたぶん始めて日枝神社の歴史のなかで登場させただろう「イザナミ」というご神名は、多くのことを示唆しています。
  もちろんこの神は、イザナギ神とならび、もともとの「陰陽」の気がはじめて人類の姿をして地上に降りられたという根源的な女神で、近江(滋賀県)の多賀大社や淡路島の古社などに祀られています。
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東京、永田町(赤坂とされることが多いが住所は永田町)の山王日枝神社の山王鳥居。上に三角形を乗せた独得の形をしている。歴史的には、これは大和の三輪山の象徴であると説明される例がある。
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各地の日枝神社では、狛犬ではなく「猿(申)」が神門などにみられる。これは東京、永田町の山王日枝神社神門。天海が指揮を執ったといわれる日光東照宮でも猿の彫刻は多数みられる。
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永田町の山王日枝神社の一画、回廊(塀)の外の末社で、なぜか静かな信仰をあつめる八坂神社の小祠。(右、猿田彦と一緒にまつられる)この後ろは古墳であったという説がある。
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比叡山のふもと、琵琶湖畔の滋賀県大津市坂本にある全国の日枝/日吉神社の総本宮、日吉大社をはじめ、古い日枝/日吉神社には白山神社があわせまつられることが多い。これは埼玉県川越市仙波の日枝神社、喜多院に隣接してある白山神社 (白山権現)。明治の神仏分離の前までは喜多院も日枝神社も白山権現もぜんぶ同じ境内だったと思われる。天海が江戸に移る直前にいた場所だ。


 

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