アジア古来の哲学と自然と芸術

彩流華 華林苑

Sairyuka art and old Asian philosophy rooted in nature.

華林のブログ


 

2023年03月30日(木) 古流の花だより

速報 石川県いけばな展 3月31日から4月3日まで 前-後期 金沢エムザ8階

    写真は前期出品作より
    写真はクリックすると拡大します。
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2023年03月28日(火) 古流の花だより

3月24日(金)~26日(日)能美市いけ花協会花展が能美市タントで開催されました。

出瓶された方々です。
超大作 
浅倉理喜、吉田理玲、石崎理萠
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大作
山崎理惠、渡辺理仙、東森理久
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九谷席、中作
杉田紫洋、広岡理桂、太田真希穂
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普通作
表美雪、下香春、中出敦香、山田佳春、川本紫広
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2023年03月28日(火) 古流の花だより

3月18日(土)19日(日)カルチャー祭りが2023が富山県高岡文化ホールで開催されました。前項の続編です。

出瓶された方々です。
北山理光、河原理佳
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門島理紀、苗加穂友
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中山諒穂、加藤樹恵、晒谷朋子
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2023年03月22日(水) 古流の花だより

3月18日(土)19日(日)富山新聞カルチャー祭りが高岡文化ホールにて開催されました。

高岡の教室から3人が出瓶されました。
水野渡月、大窪孝心、中田奈津穂
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2023年03月22日(水) 古流の花だより

2月5日、富山支部30周年記念 新春の集いが富山市・高志会館にて開催されました。

家元先生も出席して陰陽五行の興味深いお話をして頂き、とても素晴らしい集いとなりました。

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2023年03月21日(火) 華林のブログ

江戸の〝霊的骨格〟5 『アヅマ』の意味➀  万葉集と菊


  江戸・武蔵の国は、古い区分では「東国」に含まれます。
  「東国」は時代によって指す地域がやや変化するようです。その「東国」のさらに古い呼び名が「アヅマの国」です。
  「東」という字は「ひがし」、そして古くは「ひむかし」などとよまれました。音読みすれば「トウ」です。ただし、日本には古いヤマト言葉があり、それに外来の漢字をあてはめた、という歴史があります。いちばん古い例が万葉仮名です。つまり、「ひがし」というヤマト言葉にその意味の漢字「東」をあてはめ、同時にこの漢字の中国でのもともとの発音「トウ」も残り、いわゆる訓読み、音読みとなったわけです。
  さて、「東」のもう一つの訓読みに「あづま(あずま)」があります。古くは「あずま」ではなく「あづま」です。では、「東」を意味する古いヤマト言葉に「ひがし」と「あづま」という二つの語があったのか?という疑問が生じます。そこでこんな説があるようです。
  アヅマはもともと「東」意味していたのではない、アヅマが意味する「あるもの」が東方や東国にある、という伝承や考え方があり、そこから「東」をアヅマとよぶようになった、というものです。
  同じことを意味するヤマト言葉が並列して二つあった、というのは確かに不自然なことかもしれません、まして方位は現代以上に当時は重要なことでした。
  そうだとすると、「アヅマ」がもともと意味していたものは非常に重要なコトだったのではないでしょうか。「東」はどんな場合でもアヅマとよまれるのでなく、アヅマの国、アヅマ遊び、アヅマ歌、アヅマ下り、などの限られた場面にしか出てこないよみかたなのです。
  古代の神楽歌にヤマト歌とならんで「東遊(アヅマアソビ)」が採用されています。京都近辺の文化ではなく駿河(静岡県の一部)など、当時の東国の歌です。当時の中央集権の意識を考えると意外なことです。神楽歌は神まつりの余興でなく、神まつりの純粋な一部だったことでしょう。前回などにも書いたように、日本では「言霊」は非常に重要なもので、とくに神まつりでは主役にあるべきものです。祝詞は奏上するにしても、ときにかがり火を焚いて夜を徹して神招ぎするのも神楽歌によってでした。つまり、母音を驚くほど長く発音する神楽歌は強烈な言霊だったはずです。そしてときに「韓招ぎ」つまり大陸の神を迎え、ときにヤマト歌でした。さらに「東遊び」です。
  それらに関してはいろいろな見解があると思います。さらに、万葉集では東歌(あづまうた)が少なからぬボリュームで存在しています。東歌は当時の発音の法則からみて五七五七七を厳格にまもっている点から、高度な、進んだ文化であるという見解があるいっぽうで、編纂の段階で手を加えられた、とする人もいるようです。古事記・日本書紀が当時の政権に都合のいいように事実を大きく歪曲して伝えていると言われることが多くなっているのと同様に、同時代の万葉集もかなり意図的な方針で編纂されていると考えるのが自然でしょう。しかしながら、万葉集が当時の魅力的な言葉の響きの宝庫であることにかわりはないのですが。
  万葉集に「菊」が登場しないことから、当時は日本に菊の花がなかった、というかつての説は、ここへきて少し無理が感じられます。当時の「菊」は一部の人が提唱するように野菊、つまり山野にある小さな菊を考えるべきと思います。陶淵明の有名な「東籬の菊」は遣隋使や万葉集のかなり前の詩です。しかし、「菊」という字は当時の日本の書物にただ一か所、日本書紀に関わる書に「菊理媛」という神名として登場するだけです。ここではキクではなく中国語のままクク(ククリヒメ)とよませていたようですが(中国語の古い発音に関しては若干自信がありません)、菊=ククが当時の為政者たちにとっては好まれない言葉だった可能性はあると思います。政治の中心であった「神まつり」において重要な位置を占めたのは「言霊」ですから、言葉の発音にはかなり神経質であったはずです。
  いっぽうで、大陸の神(韓神)を招くような神楽をしていた人たちが、道教的な知識のなかで「菊=クク」の文化を知らないはずはなかったと考えられ、意図的に「菊」を除外した可能性は高いと思われます。菊の文化が市民権をえるのは、菊のよみかたが「クク」ではなくて「キク」に定着してから、という可能性は高いと思います。
  なんだか話の脱線がはなはだしいようですが、お許しください。以下に続く大切なことです。

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ノコンギクは古来の『菊』のなかでも代表的なものと考えられる。山野のいたるところに、晩秋に咲く。「万花の最後に咲く」と言われるのを実感させる花だ。岐阜県郡上市白鳥町前谷にて。
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リュウノウギクは現代ではなかなか見つけられない菊。しかし今日の園芸品種のいわゆるイエギクを縮小したような姿をしており、原種とされることも。ゲノム解析で解明されるのが楽しみだ。これは残念ながらまだ固い莟。紀伊半島の山地にて。北陸、金沢の三輪山のふもとにかつて住んでいた古老にお話をうかがったことがあるが、切り立った崖の上部から湧き水が瀧となって流れる岩場の上で群生しているリュウノウギクの花は、軽く叩くと樟脳に似たとても良い香りがしたという。まさに古来の「菊水」「菊慈童」を思わせるゾクゾクとするような話。
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リュウノウギクのお隣りに生えていたイワヒバ。よく似た岩場を好むようだ。
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リュウノウギクの写真をとった場所、紀伊半島の熊野の奥の玉置山の巨大なヒノキ。こんな木が生えるような深山にリュウノウギクもみつけられそうだ。ここは標高千メートルくらい。
※写真はクリックすると拡大します。


 

2023年03月17日(金) 華林のブログ

江戸の〝霊的骨格〟 4 円仁の存在

  前回にふれた江戸時代初期の高僧・天海は、江戸を中心として驚くべき霊的な構造をつくりだしたと言えます。そのもっとも分かりやすい、そして独創的・画期的な例が「七福神」でした。もちろんその他にも鬼門、裏鬼門という方角を重視したこともよく知られます。鬼門・裏鬼門への配慮は武家一般に多くみられます。
  七福神に「五行=木火土金水」の哲学をひそませたことは前回に書きましたが、鬼門・裏鬼門も五行の哲学を方位にあてはめたものです。ふつうは東西南北と中央を五行にあてはめ、たとえば南なら五行の火、そこに配する神は増長天/原意は=大きくなる神=「火」の属性、といった具合です。北なら多聞天/原意はよく聴く神=五行の「水」の属性、です。ところが、鬼門=北東は中間の方角で、これは同じ五行でも三合の法則などと呼ばれる、太陽や季節よりも月を重視する場合の五行の考え方によるものです。北東は方位における「原点」のような方角で、五行の哲学ではここが「始点」となります。
  さて、天台宗の中興の祖とされる天海ですが、天海が江戸の地で強烈な霊的な構造をつくりだした背景には、そのおよそ八百年まえ、同じ天台宗の高僧・円仁の存在があります。
  円仁は仏教界、というよりも山岳修験など神道もふくめた日本の宗教・信仰の世界における実に巨大な存在です。明治以降、その存在感は一挙に薄れたように思います。
  天台宗は、もともとは国家鎮護、皇室の護持のための祈とうを行ってきた宗派です。鎌倉時代、ここで学んだ法然、親鸞、日蓮、道元をはじめ多くの秀でた僧が天台宗・比叡山をはなれ民衆に重点を置いた新たな宗派をつくったことはよく知られますが、そこには比叡山が堕落していたという事情もあった、と説明されることもあるようです。優れた僧が現れて宗勢が伸び、しかし代替わりで時代を追うごとにマンネリ化して権威主義におちいる、という図式は少なくないようですが、天台宗においてはさらに織田信長による徹底的な弾圧により壊滅的な打撃を受けました。その天台宗・比叡山の僧、天海が江戸幕府のブレインとなり、ここに天台宗はみごとに復活したのでした。同時に、天皇家よりも武家である徳川幕府を中心に国家鎮護の霊的構造をつくったわけですから、天皇家にとっては複雑な想いがあったかもしれません。
  天海は、円仁の足跡を強く意識していたと思われます。たんに密教の偉大なる僧というだけでなく、浄土教も将来して念仏系の宗派の原点ともいえる円仁ですから多くの僧や学者がその存在をよく知っていたことでしょう。同じ比叡山・天台宗の天海にはそれ以上の特別な思い入れがあり、円仁に関する情報も数多く持っていたとしてもなんらの不思議はありません。つまり、天海は円仁の足跡を利用して江戸の霊的構造をつくりあげた、という部分が非常に多かったように思われます。
  円仁は下野の国(栃木県)の生まれ、九歳でその地で出家、十五歳で上京し比叡山にのぼり、のちに唐にも渡って多くの経典や曼荼羅などを持ち帰ります。仏法や経典のみならず悉曇(しったん)学・五行的な学問にも多大な足跡を残しますが、その後また生地の東国へも巡行します。前回に書いた天海がつくった江戸から日光・中禅寺湖へという道すじは、円仁の生地や足跡との関連が少なくないと思われます。
  「東国」の定義は時代によってその意味する地域が微妙にちがうと言われますが、円仁の時代・平安時代の京都の中央政権にとって東国はまだまだ不安定な要素を数多くふくんだ気がかりな地域だったと思われます。それはたんに権力が十分に及ばないということだけではない、この地域には違う意味での魅力あるいは不気味さといったものがあると受け止められていたふしがあります。『アヅマの国』という言葉には不思議な語感がみられ、「東下り(あづまくだり)」は魅力的なテーマだったのでしょう。その詳細は次回以降に譲ります。
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円仁(慈覚大師)が開山、あるいは中興の祖とされる寺社は関東、東北に五百以上あると言われる。すべてが事実とは言えないだろうが、その存在感の大きさは抜群だ。東京でも浅草寺、牛嶋神社などがよく知られるが、日本三大不動で有名な目黒不動=瀧泉寺も平安時代初期に円仁が開山したと伝える。湧き水(独鈷の滝)の池の背後に小高い丘、という地形で、そこここに八手の木がみえる。植えたものではない様子で、八手が生える丘陵地はかつて海岸沿いであった場合が多い。池と背後の木々の雰囲気は、〝岬の神宿る森〟の代表格である鹿島神宮(茨城県)をコンパクトにした感じでよく似ており、山地から平野部へと続く丘陵の先端という地形、またそこに湧き水があるという状況は上野不忍池とも共通する。鹿島神宮も上野不忍池もここ目黒不動もよく似た条件をそなえているのだ。またここは江戸時代初期の七福神のコース・山手七福神の起点にもなっており、本堂とはべつの場所に恵比寿尊がまつられている。天海の影響があったといえる。境内や裏の公園からは遺跡が発掘されており縄文時代の〝土版〟も発見されたという。
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2023年03月09日(木) 華林のブログ

江戸の〝霊的骨格〟 3 七福神と上野不忍池

  結界やヒモロギ、四神相応、気脈 … などなど、いろいろな言葉や角度から都市や地域の〝霊的な〟構成が説明されるのをみますが、歴史をみればこのような〝霊的な〟思考が権力者たちの行動の大きな動機の一つであったことは間違いないようです。意外に思われる方も多いかもしれませんが、明治新政府自体の政策が典型的にそのようなものであったと言えます。「廃仏毀釈」は無神論になったのではなく、神道のなかのある一流を強く前面にだして国家の根本理念としたことを想いおこせば納得していただけるでしょう。明治新政府は江戸・東京の〝霊的な〟構造を一挙に転換し、金閣・銀閣・禅宗寺院群などの足利武家政権の残影が色濃い京都の街を平安神宮などの数少ない地点への効果的な投資によって見事に平安貴族の正統の古都、という印象に変えてしまいました。
  さて、江戸時代初期に江戸の市中で意図的につくられた霊的な仕組みでは〝七福神〟が最右翼でしょう。
  七福神は高僧・天海が広めたとされます。徳川家康から三代将軍家光までの帰依を受け、その霊的な側面での指南役としてあまりにも大きな存在であった天海は天台宗の僧でした。
  七福神は恵比須・大黒天・弁才天・毘沙門天・福禄寿・寿老人・布袋和尚の七神とされるのがもっとも一般的です。それぞれは異なる来歴をもち、日本でまつられる時期もまちまちですが、〝七福神〟のまとまりとしてはじめて本格的にまつられたのは天海の事跡と思われます。また「舟(宝船)」に乗り、楽しくも呪術的な「七福神の歌」とともになんとも庶民的で親しみやすい形で広められたのは、従来の常識をくつがえす驚くべきマツリゴトの手法と言えそうです。
  七福神には「五行」の哲学がはっきりとみられます。五行は宇宙も万物もすべてが木・火・土・金・水の五つの「気」によって支配されているという哲学ですが、その観点からみると、恵比寿さまは木、大黒天・弁才天・毘沙門天は水、福禄寿・寿老人は金、布袋和尚は火と土、とみごとに割り振ることができます。火と土を一つとするバランスも古来の感覚であり、水を三つとするのも大きな理由がありそうです。そして宝船は「木」を意味し、古来、「木」が顕界(この世)の一番の原動力とされるのと一致します。また、「ながきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」(長き世の遠の眠りの今目覚め波乗り舟の音の良きかな)という上からよんでも下からよんでも同じ歌がそえられ、年末には多くの人々がこの絵を買い求めたとされます。
  歌の内容はなんとも不思議なものですが、「和歌即真言」「和歌陀羅尼観」などという古来の考え方、つまり和歌は強い「言霊」なのだという感覚は西行など山伏にも似た生活をした歌人たちに共通したものだったかもしれません。それは宮廷で技巧を凝らした歌を詠んだ人たちとは対極にあったもので、天海もまた、日光や中禅寺湖、男体山などの山岳を自らのよりどころとしており、山中で呪=言霊を唱え、和歌に対しても深い造詣があったと考えられます。
  上野の寛永寺は江戸を守護する中心的な寺として建てられ、その一部、上野の丘陵(お山)の先端には湧水の池・不忍池があります。ここに琵琶湖竹生島から勧請したとされる弁天堂があり七福神の一、弁才天がまつられますが、丘陵の先端や湧水の池というのは古来の神まつりに非常によく登場するロケーションで、ここを起点とした七福神のコースは江戸最古のもの、つまり天海が最初に定めた七福神だったようです。
  上野公園には遺跡が多数存在し、とくに縄文晩期以降のものではなんらかのマツリゴトがおこなわれていた可能性は高いと思われます。それは、ある意味では「ヤマト」の原像であり、神武東征以前のヤマトの文化・信仰は決して関西・近畿の地にとどまっていたわけではないと思われます。
  そして、この上野の丘陵を北関東へとはるかにたどると栃木県日光市の深山、男体山の中腹、標高千二百メートルを超えるにもかかわらず美しくも広大な中禅寺湖があり、ここは天海が非常に大切にした場所で、湖畔には天海が中興の祖とされる中禅寺(立木観音)があります。そして中禅寺にはひっそりと、しかし厳かに並列した七福神がまつられています。往古より紀伊半島の熊野から北陸の白山へという道のりが修験の最終コースとされたように、奥日光の中禅寺と江戸の街は人の感覚では遠い道のりでも、霊的には瞬時にしてつながるケーブルのようなもの、なのでしょうか。

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中禅寺から中禅寺湖をのぞむ。写真の右側には男体山がある。標高千二百メートルを超える場所にこのボリュームの湖があることは驚きだ。光や雲が神秘的な光景をつくりだすことも多い。栃木県日光市。

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上野不忍池の弁天堂。背景にみえるのは上野のお山。丘陵の先端に湧水の不忍池があることがよくわかる。上野公園一帯は遠い昔から貴い場所とされてきただろう。
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