アジア古来の哲学と自然と芸術

彩流華 華林苑

Sairyuka art and old Asian philosophy rooted in nature.

華林苑 花日記


 

2021年09月28日(火) 古流の花だより

田井菅原神社で献花

 石川県金沢市天神町の田井菅原神社で献花された花です。
 花は古流柏葉会・家元之師範代・森川理青先生。
 花器は家元(華林=理樹)デザイン。
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 金沢・加賀藩は天神信仰がさかんですが、この社の天神像(非公開)は加賀藩前田家とは別のいわれがあります。菅原道真公が大宰府へ左遷される途中、河内の国の道明寺(大阪府藤井寺市)の叔母覚寿尼を訪ねてお別れの挨拶にうかがった際、旧知の田邊左衛門(さえもん)に自画像を授けられました。それが宮司家に伝わっているものです。この社を〝パワースポット〟とよぶ人もいるようですね。
 また田邊家は名君として知られる三代藩主前田利常より十村役(代官・大庄屋)を命ぜられ、以降、代々その職を継ぎました。そのため貴重な加賀藩の史料の数々が残されています。
 またこの社には、古流家元・廣岡家に伝わる天神像もお預かりいただいています。
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2021年09月18日(土) 華林苑 花日記

『秋は千草八千草』

江戸期の「軸と花」の系譜……2

みどりなるひとつ草とぞ春はみし秋はいろいろの花にぞありける  よみ人しらず  古今和歌集

 鎌倉・平安ときに奈良時代までさかのぼるすぐれた和歌の数々は、日本の伝統文化のなかでキーワードのように伝えられていきます。言葉の文化、なかでも和歌を軸として推移していったのが日本の伝統文化でした。
 そんな和歌には、狂言「ふねふな」にまで登場する『ほのほのと あかしの浦の 朝霧に 島隠れゆく 舟をしそ思ふ』(伝柿本人麻呂)、尾形光琳のカキツバタ図屏風(根津美術館所蔵)のテーマと考えられる伊勢物語の八橋の段のカキツバタの和歌『から衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ』や同じ光琳の紅白梅図屏風(МОA美術館)のテーマであっただろう『末むすぶ人の手さへや匂ふらん梅の下ゆく水の流れは』(平経章 後拾遺集)などなど、多くを数えることができます。
 『末むすぶ … 』の歌は鈴木春信の浮世絵にも登場し、分かりやすい内容、男女のときめきの舞台に古来の美意識が設定されていること、そして梅という豊かな文化に彩られた樹が主役であることなどが創作意欲をそそったものでしょう。
 江戸時代の生け花にも和歌の文化は取り入れられていきました。床の間という、和歌の軸を飾るのに適した建築様式が江戸時代に確立していったことは、「和歌と花」の文化が大きく花ひらく要因にもなりました。そして『末むすぶ … 』の和歌にそって生けられる「水くぐりの梅」は江戸初期~中期の「なげ入れ(抛入)」に、さらに中期~後期の「生花(せいか)」に取り入れられて新たな伝統となってゆきます。
 ここでは今の季節にあわせて、「秋は千草八千草」という言葉のもとになった和歌が江戸初期~中期の生け花「なげ入れ」の書に掲載されているのをご紹介します。(華林/蓮井希京記)

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 江戸中期、元文年間(1736-41)の『抛入岸之波』(釣雪野叟)のなかの図。野叟は漢文調の題をつけ図の花器は中国渡来の唐物と考えられる。和歌は日本の古今和歌集のもので、足利義政の東山文化由来の唐物の文化から純和風の文化へと移り変わる江戸前・中期にあってこの花と花器の組み合わせは面白い。さらに江戸後期・末期になると同じこの和歌に純和風の図が添えられるようになってゆく。
 和歌の意味は「春は同じ緑色の芽で一種類の草のようにみえていたが、秋になって成長して花が咲いたらいろいろの草が入り混じっていて美しい」というもの。これが「秋は千草八千草」という伝統的な美意識となり、さらに江戸の秋の生け花ではさまざまな種類の草を混ぜ生けるという文化へと成熟してゆく。
 和歌俳句の世界でも、後の時代へとその美意識はうけつがれる。以下はその例。
◇湧きかねしおなじみどりの夏草を花にあらはす秋の夕暮れ/小侍従
◇夏野をばおなじみどりに分けしかど秋ぞおりつる七草の花/藤原隆房
◇みどりなる春はひとつのわか草も秋あらはるるむさしのの原/順徳院
◇緑なる一つ若葉と春は見し秋はいろいろにもみぢけるかも/良寛
◇草いろいろおのおの花の手柄かな/芭蕉


 

2021年09月03日(金) 古流の花だより

小松天満宮で献花

 石川県の小松天満宮・秋季大祭で献花された禮華ふうの自由花です。
 花は古流柏葉会師範・大江紗穂さん。
 花器は家元(華林)デザイン。
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 小松天満宮(石川県小松市)は金沢城の裏鬼門(西南)の方角にあり、金沢城の鬼門(東北)にあった卯辰山の観音院(石川県金沢市)とならんで加賀藩前田家にとって非常に重要な神社でした。
 古来、天神の本地は観音とされ両者は表裏一体の信仰でいずれも武家全般に篤い信仰を受けましたが、とくに加賀藩の天神信仰は有名で、多数ある加賀藩ゆかりの天神社のなかでも小松天満宮は第一にあげられるものです。観音院のほうは明治の廃仏毀釈のながれのなかで大きくその姿を変えてしまいましたが、小松天満宮は幸いなことに往年の姿をそのままに保っています。
 白山山系から流れる梯川(かけはしがわ)のほとり、日本海への河口にほど近い場所に位置する小松天満宮は洪水対策として近年「浮島化」の工事がおこなわれて陸側にも水路ができ、「浮島」になりました。
 熊野信仰の中心として有名な熊野本宮もかつては熊野川の中州にあり、度重なる水害で何度も流されたようですがそのたびに再建していたようです。明治半ばの洪水でついに近くの丘の上にのぼり現在の本宮となっていますが、中州の旧社地は大斎原(おおゆのはら)として現在も残されています。
 小松天満宮の浮島化には熊野本宮の歴史と逆行するかのようなロマンがみられ、それが洪水対策にもなるという、現代のひとつの規範を示しているようにみえます。熊野の大斎原の上流の端には熊野の奥の院・玉置山の遥拝所があったように、ここ小松天満宮の社地の上流側の延長には白山があります。
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